2020-08-07

●お知らせ。今月は、「文學界」の新人小説月評だけでなく、「新潮」に『月の客』(山下澄人)の書評を書いています。

轟二郎(三浦康一)が亡くなった。フジテレビのドラマ『翔んだカップル』が放送されていたのは中学一年の時(1980年)。おそらく、今観るとスカスカで退屈だろうと思うのだが、当時は衝撃的だった。良くも悪くも、バブル前夜、八十年代初頭の、グローバルな資本主義が充分に準備されていつつもその幕開け直前であることによる、未だ楽天的に、表層的で軽薄でありえた時代の空気そのものが出ている感じのドラマで、中学にあがったばかりのぼくには、新しくてキラキラしている、「来たるべきもの」の象徴であるように見えていた。

(YMOの「ライディーン」や「テクノポリス」が流行っていたのと同じ頃だ。)

(だがそれは「来たるべきもの」ではなく、ある種の楽天性が可能であった最後の時期だった、ということだと思う。今の自分は、当時「来るべきもの」と感じられたものの残り香のようなもののおかげで生きているように思う。)

轟二郎は、当時、既におじさんにしか見えない風貌だったが、主人公のボクシング部の先輩で、高校生役だった。他の出演者は、芦川誠桂木文柳沢慎吾秋山武史など。東京ヴォードヴィルショーの佐藤B作や坂本あきら東京乾電池ベンガルなどがテレビに出だしたのもこのドラマくらいからだったと思う。

翔んだカップル』のNG集の動画があった。

https://www.youtube.com/watch?v=eOMCRD1O7HI

上に「当時、既におじさんにしか見えない風貌だった」と書いたけど、それは当時中学生だったぼくの印象であって、今観ると、高校生には見えないとしても、充分に若者のように見える。

(上の動画で、エンディング曲がかかると、感情的に動かされるものがある。当時も今も、来生たかおの曲は好きでも嫌いでもなく、特に興味もないのだけど、中学の頃に来生たかおの曲が流行りすぎていて、環境音のようにいろいろな局面で自然に耳に入っていたので、耳にすると自動的にこの時代の空気とある種の感情が濃厚に惹起される。ぼくにとって八十年代前半は黄金時代なので、それはほぼ幸福な感情だと言える。とはいえ、自分から能動的に来生たかおの曲を聴くということはまずなくて、昔も今もそれはどこかから聞こえてくるものだ。)