●作品のなくなった(本の山が出来ている)アトリエで、今、作品たちが置かれている遠く離れた空間を思い浮かべてみる。その空間はおそらく「ある」はずだけど、誰にも見られていない(鍵がかかっている)。電車に乗って、鍵をあけて、そこに行けば、ほぼ確実に作品たちはあるし、それを見るこができるだろう。でも、今、ぼくは「そこ」に行くことが出来ないので、作品たちを、その空間を見ることはできない。だからただイメージすることしかできない。ぼくが実際に「そこ」に行った時、作品たちの積み下ろしを手伝ってくれた人がぼく以外に五人いた。大家さん夫婦ものぞきにきいた。でも、今、ぼくが「そこ」をイメージする時、そこには誰もいない。かといって、ぼくがイメージしているのは「そこ」の「今」というわけでもないようだ。いや、やはり「今」なのか。厳密に「今(何時何分何秒)」ではないが、ぼやっと「今」である気もする。
予定をかえて、これから「そこ」に出かけてゆくこともできないわけではない。電車に乗って、鍵をあけて「そこ」を見る時、今、ここでイメージしている「そこ」とはきっと印象が異なるだろう。大ざっぱにイメージしているわけではない。作品を運び込んだ時の記憶から、出来る限り詳細に「そこ」の様子をイメージすることはできる。しかしそれでも、きっとどこか違っている。
行けば確実にあるはずの「そこ」に、今は行くことが出来ないのでイメージする。このイメージは「ものがある」という概念を支えるイメージだといえる。しかしこのイメージそのものは、フィクションであるとも言える。例えば、USBメモリに保存した画像は、そこにアクセスすればディスプレイ上に再びあらわれる。しかしその画像はUSBメモリ内に「ある」わけではなく、その都度一定のプログラムに従って再構成される。画像そのものは、ウインドウを閉じれば消えて、また呼び出せば改めて構成される(プリントされた写真が「ある」のとは違う)。しかしそれは事実上「ある」ことと変わらなくなってくる。電車がとまれば「そこ」に行けないように、パソコンが壊れれば画像は構成されない。「そこ」が火事で焼けてしまえば作品は消えてしまうように、データが壊れれば画像は消えてしまう。
「そこ」があることと同じように、画像があるわけではない。にもかかわらず、それはどちらも「ある」として扱い得る。それは、「ある」ということが概念であり、それが手続き的なフィクションによって成立していることを示す。一定の条件を満たすものを「ある」と見なしてかまわない、というような。しかし勿論、「ある」ということがそもそもフィクションだということではない。
例えば、物理学者が「多次元世界がある」と言う時、その「ある」は、デジタル画像があると同じではなく、「そこ」があると言うときの「ある」と同じ意味であるはずだ。しかし多次元世界のあり様は、見ることも触れることも出来ない。その「ある」は手続き的フィクションの「手続き」の確からしさ(例えば、無数にある「別の手続き」との整合性等)によって示されるしかない(厳密には数学的な手続きによってしか示すことが出来ないだろう)。感覚不可能なものが「ある」ということは抽象的な形式によってしか示されない。しかしそれは「そこ」があるということと同じような具体性に繋がる抽象性なのだ。
本来は抽象的な形式性によってしか捉えられない「具体性」に、なんとかして感覚的(身体的)な通路をつくるのが芸術と言えるのではないか。