●建築家の柄沢祐輔さんのレクチャーをUSTREAMの中継で視聴していた。
http://www.nogizakahouse.com/japanese/talk-in_J.html
柄沢さんの作品は下のリンク先でみられます。
http://yuusukekarasawa.com/
●柄沢さんが自分の作品についてまとまって話すのをはじめて聞いたが、すごく面白かった。一方に、非身体的、非経験的、非ユークリッド的、抽象的なアルゴリズム的な秩序があり、もう一方に、身体的、経験的、ユークリッド的、具体的なものとしてたちあげるしかない建築物があり、そのなかを動く人間がいて、そこでたちあがる経験や感覚の質感がある。柄沢さんは自分の作品を、この二つのものが接する場としてたちあげたいということなのではないか。以前お会いした時に柄沢さんは「アインシュタインによって宇宙は非ユークリッド空間であることが証明されたのに、何故人はそれをユークリッド的な空間としてしか経験できないのか」というようなことを言っていた。だからきっと、非ユークリッド的な時空を経験可能にするユークリッド的な空間が目指されているのではないか。初期の、実現しなかった住宅のプロジェクトとして、非ユークリッド的な形態とユークリッド的な形態をモーフィングによって繋げるという発想は、単純ではあるけどこの指向性をはじめから持っていたことを示すように思われる。
●villa kanousanを訪れたことがあるという人が、実際にはドアを通って部屋を移動しているはずなのに、印象としては「壁がない」という感じで、そこが矛盾してるんです、と言っていたのが面白い。そこに、経験の別な構成のされ方が、非経験的なものの経験の一つがあるのではないか。
アルゴリズム建築という言葉だけをぱっと聞くと、コンピューターにあるアルゴリズムを入れると半ば自動的に設計図がぽんと出てくるかのようなイメージだけど、でもそれだとアルゴリズムのイラストレーションでしかなく、コンピューターのおかげで(アルゴリズムを使うと)こんなことも出来ますよ、こんな変な形が出てきますよ、というコンセプトの提示でしかなくなる。でもきっと柄沢さんのやろうとしていることはそうではなく、アルゴリズムという非経験的、非身体的なものを身体にとって経験可能なものにしようということで、そこにはおそらく身体と非身体、経験と非経験、アルゴリズムと三次元空間との繊細で膨大なすり合わせが必要になってくる。実際、今度実現するというs-houseについて、「図面の数がギネス級」とか、「柱を数ミリ細くするために工事の開始が数か月遅れる」とかいう話を聞く。それはおそらく、柱を数ミリ細くするために建物全体の構造を洗い直すということで、つまりそこまでしてでもその「数ミリ」の差が重要であるということになる。経験が非経験的なものに接続されるために、その数ミリは譲れない、と。きっと、そういうものたちの膨大な積み重ねによってギネス級の図面の数が必要となるのではないか。その数ミリの判断には柄沢さん自身の身体的感覚やスケール感が関わっている。そして同時に柄沢さんは、設計する段階で「数ミリ」というレベルでの操作-判断が出来るのはコンピューターのおかげだとも言う。ここにも、身体と非身体のハイブリッドがある。
●なぜダイアグラムではなくアルゴリズムなのか、というような問いに対して、ダイアグラムだと平面的だし粗い、コンピューターの計算能力によって立体的になり、解像度も断然違ってくる、というようなことを言っていた。
コーリン・ロウの「虚の透明性」を反転させて「虚の不透明性」ということを柄沢さんは言う。映画のようにシークエンスを線的にひとつひとつ通過していって、すべてのシークエンスを経験した最後に「全体」が立ち上がってくる、というのが虚の透明性(近代的建築の空間性)であるとすれば、柄沢さんの作品では、最初に全体が与えられ、その後に個々のシークエンスがその都度「発見される」という。それはインターネットの検索で、最初に検索ワードがあって、そこから様々に分岐してゆくというようなこととパラレルだとされる。
ただここで、「全体」というのは、例えばvilla kanousanだったら外観が単純な立方体だから一目で把握できるだとか、どの部屋にいても他のすべての部屋が見えるということだけでなく、アルゴリズム的な秩序がどのような細部にも応用されていて、どの細部を見てもそこに「全体」の秩序が内包されているということでもあると思う。つまり、どのシークエンスも全体の展開であり変奏であり、だが同時に、具体的で個別性のある質感を持ってもいる、というような。それを経験する人は、具体的にそのアルゴリズムを言い当てることは出来ないとしても、ある共通した何かがどの細部にも響いていることを感じることが出来る、と。どの細部にもある共通した何かが響いているのを感じつつ、その都度、その共通した何かの思わぬ展開を発見し、それに驚く、というようになればいい、と考えているのではないか。
だから、ここで「全体」とは俯瞰的な視点とはちょっと違うのではないか。それはきっと非経験的なアルゴリズム的秩序のことで(つまりそれは視点-身体がないということで)、だから建築を経験する人は、非経験的なアルゴリズム的秩序の予感(身体の消失)を感じつつ、同時に、個別的、具体的なシークエンスを、その都度の受肉(身体化・経験化・空間化)として発見するということではないだろうか。
●こう考えると、柄沢さんは案外アラカワに近い気がする。建築家としての柄沢さんは荒川修作の建築を決して認めないと思うけど、やろうとしていることと言うか、見えているものは近い気がする。しかしだからこそきっと、アラカワ(ダイアグラム)では粗すぎる、ということなのだろう。