●東近美の「日本の家」。戦後日本の住宅建築の継起的で歴史的変遷を描くというのでもなく、戦後の住宅建築のマスターピースを選定するというのでもなく、「日本(の起源、の本質)」を強調するのでもなく、系譜学として配置された「日本の家」たち。「系譜学的に進められる歴史の目標は、われわれの本体の根を再発見することではなくて、逆にそれを消散させようと執拗に努力することである」(フーコー)。展覧会のコンセプトとしては妥当だと思う。一つの明確な図を描くのではなく、そこからさまざまな読み取りが可能になるマトリクスのような展示。
(とはいえ、何人かのビッグネームの建築家は特別枠扱いという感じだけど。)
歴史性というか、継起的展開がまったく無視されているわけではなく、戦後すぐから現在までという時間の方向性(時代の質的変化への意識)はなんとなくありつつも、作品は、時系列的ではなく、13の「系譜」によってゆるくグルーピングされて配置されている。そして展示されている作品数が多い。「13の系譜」の設定がやや恣意的ではないかという感じもあるのだけど、それもまあ、強い違和を感じるほどではない。
(『s-house』が、「遊戯性」という区画に分類されていたけど、あの作品には遊戯性はまったくないのではないかと思う。理念性と身体性とが、間に遊戯性---隙間や冗長性というような意味での「遊び」をも---を介することなく、直接的にぴったり重なってしまっているところがあの建築のヤバいところなのではないかと、ぼくは思う。「日本の家」展を観ても、柄沢さんのような建築をつくる人は他に一人もいなくて、柄沢さんがいかに特異な存在なのかと改めて思った。「系譜」の外にいる感じ。ただ、『s-house』の感じは、展示してある模型と写真だけではおそらく分からないので、展覧会としては、ちゃんと納まっている。)
展覧会のコンセプトや作品選定などにかんして、インサイダーの人にはいろいろ意見があるのかもしれないが、ぼくとしては、展覧会としてとても楽しかった。とにかく、様々な住宅、さまざまな空間がたくさん観られる、そして比べられるということが楽しい。さらに、建築模型のつくりや図面の描き方に、建築家の趣味がモロに出ているところが面白かった。趣味じゃなくて、思想でありコンセプトなのだ、と言うかもしれないけど、いや、これは趣味でしょ、という楽しさ。模型というのは作品(建築物)そのものではないから、割合に趣味が無防備に出るのではないだろうか。よくない言い方かもしれないが、非常にレベルの高い「趣味の工芸(工作)展」をみているような楽しさがあった。感覚的な楽しさをたっぷりと味わえる。美術館の近くに住んでいたとしたら毎日通いたいくらい楽しい。
仮に、趣味などではなく、思想でありコンセプトの表明であるとして、模型は、実際の建築空間を観ていない人に、それを出来るだけ正確に想像させることを目指してつくられてはいなくて、趣味なり、思想なり、コンセプトなりの方を、強く押し出す形でつくられているように思った。つまり、空間経験のためのものというよりは、プレゼン用のものだと思われる。そのこともあって、実際の建築空間の具体的な質を、生々しく頭のなかで想像できるという感じの展示ではなかった。これは、作品数が多いので仕方がないとも言えるけど、写真や映像なども、その場の空間的経験がよく分かるような撮り方をしているものが少ないように思った。住宅は特に、「見た目」よりも、その空間の内側に織り込まれる経験の方を重視してつくられるだろうから、写真や映像で再現するのは難しいだろうというのは分かるが。そういう意味で、CGによる空間散策の再現のような映像がもっとあったらよかったと、ぼくは思った。
●個別の作品としては、西沢立衛の「森山邸」がすごく気になった。
●まったく別の話。長島明夫さんがブログで、この展覧会の内覧会のスピーチで伊東豊雄が「東工大色が強い」と発言したと書いていた。
http://d.hatena.ne.jp/richeamateur/20170719
この発言が建築系のインサイダーの人たちにどのようなコノテーションを響かせるのかはわからないけど、建築の人は、割合、○○大学系とか、○○設計事務所出身というような、「系譜」をけっこう強調するという印象がぼくにはある。これは、建築では「師匠から仕事を学ぶ」みたいな意識が強いことの表れなのだろうか。
何が言いたいのかと言えば、ぼくは自分の大きな弱点の一つに「師匠と呼べる存在をもったことがない」ということがあると感じているということ。だから、○○系というのを強調できることがちょっとうらやましい。ぼくは、小学生の頃から「教師」という存在にまったく尊敬を感じることができなかったし、若い時には積極的に「徒弟」的関係を避けていたのだけど、それは間違いだったなあ、と。
(たとえば、ビートたけし明石家さんまといった人たちでさえ「師匠」をもっている。彼らは、芸としては師匠から何の影響も受けていないと思われるが、おそらくそれ以外のところで多くの教えを得ているのだと思う。ダウンタウンくらいの才能があれば、師匠なしでもいいのかもしれないが。)
とはいえ、ぼくの場合は、徒弟的なものを意識的に避けていたというより、師匠のような存在と上手く関係をもつことができないという人格的欠損をもっている、という方が正しいと思うので、選択の余地はなかったのかなとも思う。