●ぼくは子供のころからずっと、父に似ている、瓜二つだ、と言われ続けていたのだが、中年と言ってよい年齢になってからは、母に似ていると言われることの方が多くなった(昨年末に個展をした時、両親が観に来て帰った後に、ギャラリーの人から「お母様にそっくりですね」と言われた)し、自分でもそれを感じることはたまにある。しかし、今日、ヒゲを剃ろうと思って覗き込んだ鏡のなかにずいぶん前に亡くなった母方の祖母の顔があって驚いた。自分の顔のなかに祖母の面影を見たというより、そこに祖母の顔があったという感じで、うわっと驚いたのだった。後から反省的に考えれば、骨格からしてとても細かった母方の祖母とぼくの顔に似ているところがあるとはあまり思えないのだが。
(なんというか、最近どんどん、自分の顔が「自分のものである」という感じが希薄になっている。)
●引用、メモ。『飽きる力』(河本英夫)より。春には飽きた、と言う話。
《少しエクササイズをやってみましょう。
春先になって少し暖かくなり、身体も楽になります。植物も一斉に葉をだし始めます。こんなときに、あえて「春には飽きた」と言葉にしてみるのです。
意識はつねに物事を過度に固定し、安定させてしまいます。それが意識の本性に含まれているのです。意識によって自分自身を確認したとき、過度に自分自身を限定しています。「私は春先が大好きだ」と認識したとたんに、「春先が好きな自分」が自己認識されて、過度に安定してしまいます。この言葉は、他人向けの自己主張のようになってしまうのです。
私は、日頃からセラピストとの付き合いが多いのですが、セラピストのなかには、一生懸命勉強して、「私の治療は認知神経リハビリだ」と主張したりする人をよく見かけます。そんなとき言葉にしては言わないのですが、「この人は大失敗しないと、前に進めないな」と感じるのです。治療法は、形成されていくものです。患者ごとに病態は異なりますので、どうやって治療技法を形成していくのかだけが問われており、その人の立場や観点が問われているのではないのです。
立場の主張は、能動的なアピールのように見えて、その実ただの守りの姿勢なのです。そのとき自分の頭がもう動かなくなっていることに気づくことさえできないのです。
それに対して、「春には飽きた」と言葉にしてみると、まず自分自身にとっても、何に飽きているのかがわからないのです。そこから隙間が生まれ、経験が動き出します。「飽きた」というのは、誰に向かって言葉が発せられているのかもよくわかりません。また特定の内容を非難したり批判したりしているのではありません。こうした言葉は、実践的な生活の場所での「分散的なターム」でもあるのです。意識が焦点化を得意技としており、本性的なできるだけ焦点を明確にするように働くのに対して、飽きるというのは、むしろ「分散的な心の活用法」なのです。》
●もう一つ引用。前半部分の主張が、後半いきなり料理の話に飛躍してゆくところが、突飛かつ具体的でとてもリアルだ。
《反省は自分で自分のことを考えることですが、反省のなかには自分のことを客観視して、こうなっている自分を責める、あるいは正当化するような仕方が、多かれ少なかれ含まれています。ですから反省しても、自分自身を叱咤激励してもっとがんばらなければと思うばかりなのです。これに対して、気づきはそうした経験のモードに対して、「どうもこんなことでは」と距離をとり、経験を意味づけるのではなく、むしろ現在の経験に対して隙間を開き、選択肢を増やしてゆくのです。こういう機会を簡単に作れなければ、何か調子が悪いなと感じたら、普段は自分一人ではめったに食べないほどの高額の料理を食べてみるのです。今月は家計が苦しくなると思いながらでも、おいしいものはやはりおいしいのです。何かとめどもない半ば空虚な状態が襲ってきます。本気で物を考える気も失せます。そこからおのずと進んでゆける回路を見つけるのです。》