2019-03-18

●『野のなななのか(大林宣彦)DVDで観た。なんといったらいいのか…、これもすごいな。

この映画は弘前劇場長谷川孝治の「なななのか」(おそらく戯曲?)を原作としている。弘前劇場は一度だけしか観たことがないが、平田オリザ以降を強く意識した作風であると思われ、この映画の、セリフが多くたたみかけるような---あるいは同時多発的で---それでいて、かみ合っているのかいないのか分からないような会話の重ね方とか、一つの場面が割合と長くつづくとかいう特徴は、原作に由来するものだろうと思われる。演劇的な場面の作り方だと言ってもいいと思うのだけど(特に顕著なのが、老人が死につつある病室での場面)、しかしこれを「演劇的」と言ってしまうと演劇の人は怒るのではないかというくらい、演技にしろ、演出にしろ、その一つ一つを取り出すと、薄っぺらというか、あまりに直示的というか、紋切り型とも言えてしまうようなものだろう。

言葉に限らず、映像としても、音響としても、たたみかけるように、何層にも重ねられた、過剰な情報量として示される。しかし、それらはどれも、一つ一つをとってみれば、単純明快であり、直示的で、説明的で、紋切り型でさえあると言えるようなもので、それ自体で難解だったり、多義的な含みや、汲み尽くしがたい深みをもっていたりはしない。つまり分かりやすく図示的で謎はなく、しかも、大事なことは何度でも言いますよ的に、執拗に何度も反復される。一つ一つの言葉や映像(イメージ)や音響には、誤読しようもなく、分かりやすく、あからさまな「意味(メッセージ)」が背後にある。そして、いくつかの意味(メッセージ)オブセッションのように執拗に反復される。

読み取られるべき(一義的な)意味をもったしるし(記号)たちが、過剰なくらいに多量に投入され、様々な形で組み合わせられ、それらが多層的に重ねられて、しかも矢継ぎ早に過ぎ去っていく。しかし、早すぎて掴み損ねたと思っても、それらはまた回帰してくる。意味をもつしるしたちが、組み合わされては、バラバラにされ、また別の組み合わせとして戻ってくる。一つ一つをしっかりと吟味している余裕はないとしても、流れの中でまた別の形として回帰する。というか、一つ一つのしるしには吟味が必要であるほどの深みはないのだが、三時間近くある上映時間のなかで、その組み合わせの様々な変奏を吟味させられることになる。

ここで示される意味の「内容」は、反戦や反原発といった主張であり、311以降の日本のジャーナリスティックなレポートであり、敗戦後もロシアとの間で戦闘が続いたというあまり知られていない歴史的事実の提示であり、舞台となる芦別市の歴史と現状と風景であり、メッチェン(少女)に対する過剰に感傷的な幻想であり、「血」に対するオブセッションであり、決して消えることのない過去の罪であり、旧制高校的で懐古的な青春の物語である。これらの「意味(内容)」たちは、因果的な絡み合いによって関係しているというより、この作品の形式によって組み合わせられて並置されている。

この、一見すると恣意的にもみえる意味たちの組み合わせは、この映画の冒頭に掲げられている、《人の生き死には、常に誰か別の人の生き死にに繋がっている》という主題によって正当化されている。誰でもが、誰かの代理として生きている。同様に、どんな像(言葉、映像、音)も、別の意味の代理として現れている、と。つまり、この作品全体としての主題は《人の生き死には、常に誰か別の人の生き死にに繋がっている》であり、その主題が暗示されるのでもほのめかされるのでもなく、作品の冒頭で明示的に言葉で語られている。最初に、この作品は《人の生き死には、常に誰か別の人の生き死にに繋がっている》ということを主張するものですよと言葉で説明され、まさにその言葉通りであるような作品がその後に三時間近く続く。

あらゆるものに意味がこめられており、しかもその意味の一つ一つが曖昧さも謎もなく、すべて明示的に示されている。一人の老人が亡くなってから、なななのか(四十九日)までの物語という時間的な限定が一応設定されているが、「意味」たちの組み合わせは時空の秩序に従属しない。「大事なことは何度でも言います」とでもいうように、強く主張したい、強調したい「意味」は様々な組み合わせのなかで何度も反復され、それほどでもない「意味」はさらっと流される。「意味」たちは、「主張したい」という思いの強さのグラデーションによって秩序づけられ、作品が構築されているようにみえる。

それにより、映画全体がオブセッショナルな調子を帯びることになる。まるで他人の見た悪夢を見せられているかのような感触があり、悪夢のリアリティによって作品が(作品がする「主張」が)支えられているように思われる。悪い言い方になるが、「妄執」のようなリアリティとも言える。