2019-03-19

●お知らせ。VECTIONとしての最初のアウトプットであるテキストが「ÉKRITS」に掲載されました。一つのGoogle Documentで共同執筆した(メンバー全員---西川アサキ・古谷利裕・掬矢吉水・もや---が同時に執筆、編集し、他人の書いた文章を無断で消したり上書きしたりした)ものです。

タイトルは「r/place的主体とガバナンス革命へと誘うブロックチェーンインターフェイス」です。「r/placeって何?」となると思いますが、本文の最初で示しています。

http://ekrits.jp/2019/03/3046/

下のリンクはVECTIONのホームページです。まだなにもありませんが。

https://vection.world/

●以下は、本文より一部引用。

《そもそも問題は、わたしたちにとって何が「良い」ことなのかを、漠然としか思い描けないことにあります。共同体にとって「良い」ものを積極的に定義するのは難しいことです。答えを出せない問題とも言えます。

かつてウィトゲンシュタインは、「ある規則に従っていないということを指摘することは可能だが、その規則を明確に定義することはできない」という意味の指摘をしました。ウィトゲンシュタインの指摘は、一見そのような不定さを持たない「+の記号が意味する規則」のようなものまで含んでいました。また同様のことは、現在の技術において、パターン認識で雑多な画像から「猫らしきもの」を選ぶことはできても、「猫であることの画像的特徴」を定義として明示的に宣言・列挙・記述することはできない、というような事態にも現れています。

また、過去の革命運動は、本来書き下すことができない夢や希望を「理念」として定義してしまい、それに従わない人を内部闘争で追い落としたり、都合の良い解釈に従わない人を「反動的」であると非難することで惨劇を生みました。》

《一方、ポジティブに何かを得ようと求めるのでなく、マイナスを減らすという思考もあります。》

《そこで、「減らしたい損失」を「組織によって生じる、いろいろな苦痛」と仮定してみます。組織や社会から要請されても、嫌なものはイヤだと言いたいわけです。しかし、組織の内部で勇気を出して発言するのは難しいものです。哲学者ハンナ・アレントは『全体主義の起原』や『エルサレムアイヒマン』などで類似の問題を深く分析して、組織の命令に従うだけではなく、ある種の勇気、命を危険にさらして命令に逆らい、人類にとっての正義を維持するような判断を個人に求めました。勇気はおそらく重要で、必要です。しかし、個人の勇気に依存しすぎたガバナンスは持続可能ではないでしょう。勇気のある人は少ないし、増える見込みも特にないからです。

勇気を必要とせずに、嫌なものはイヤだと客観的に伝える仕組みが(昔は無理だったが)今なら作れる。もしそうなら、少しは希望があるのかもしれません。》

《「ポジティブな目標はわからないが、これだけは嫌だということは割と簡単にわかる」と仮定できるなら、これは有効な方針です。たとえば、統計的なAI技術の多くは「損失関数」という指標を使って、「損失を減らす」ことで学習します。「損失」を定義できる程度の漠然とした方向性は研究者によって与えられても、損失の低減を具体的に達成するポジティブな方法は、研究者にも、学習に成功したAI自身にも、最後まで明示的なルールとしては不明であることがほとんどです。それでも学習は達成されます。「規則は定義できないが、使える」というウィトゲンシュタインによる指摘の現代版です。》

《たとえば、AIによる顔認識の技術では、明示的なルールを記述することはできませんが、仮にそれを「顔を認識する三つのルール」として強引に書き下したとしましょう。「卵型で、黒い部分が2箇所あり、上の方がやはり黒い」というように。ただし、人間による実際の顔認識は、やはり決してルールでは書けない複雑な判断でできているとします。

上記のルールの場合、「横顔」や「灰色の髪」が出てきた瞬間に破綻しますが、それでも「三つのルール」を守りたい人はどう振る舞うでしょうか? ルールの解釈を変えて忖度させるか、あるいは、あらゆるルールに失望するか、どちらにしてもルールは形骸化します。ルールへの固執は、その形骸化を導きがちなのです。

そこで、理想を抱き、それをルールによって表現する以外に、目標を定める方法を探してみます。

ポイントとなるのは、「(AIは)ルールでは書けないが、事実上は顔を認識できている」ということです。ルールに固執する視点からは、この顔認識の実現は望めません。諦めるべきは、「明示的なルール(による理想の表現)」であって、ルールによって目指されていた、自然言語では「否定」という形式でしか表現できない「理想」ではありません。また、顔認識は否定神学のように「〜でない」という言葉を繰り返すだけの無内容な主張でもありません。》