●引用、メモ。『飽きる力』(河本英夫)より。
河本英夫マトゥラーナ/ヴァレラの『オートポイエーシス』を翻訳した時、このままではまったく理解されないと思い、オートポイエーシスに関する資料を集めて読み込み、原稿用紙100枚くらいになる解説を書く。その解説が八割くらい書きあがった頃、とつぜん、オートポイエーシスという構想を「つかめた」瞬間があり、その時、食べていたものをすべて吐いてしまい、近くの部屋まで這って行って、昏睡状態のように眠ったのだという。そして「つかめた」ことによって、今まで自分なりに勉強して「理解」していたと思っていたことが根本的に違っていたことを知る。「わかる」ことの狭さ。
《それから目が覚めて、どうもこの本には、これまで考えられていたこととはまったく違うことが語られているということに気づいたわけです。ところが、そうすると、翻訳のときに、このままでは読者にはまったくわからないからと原文にない訂正を自分なりの善意で入れた、その四〇〇ヵ所が全部間違っていたことがわかってきたのです。》
《こうした局面で一挙につかんだものは、あくまでアイディアです。この段階では、そのアイディアがどこまで展開できるかはまだわからないわけです。
ただ、これまでとはまったく違うことが語られているということだけはわかる。》
《それは、「視点を切り替える」ということでは決してないのです。難題にうまく直面するということは簡単ではありません。(…)自分の経験の全域が組み替わってしまうほどの難題に直面できることは、そう多くないのだと思えます。》
《視点の切り替えのようなことで、(マトゥラーナ/ヴァレラの主張する)「入力も出力もない」ということを説明しようとしていた、たくさんの議論が、ドイツにも日本にもありまた。何とかわかるかたちにしようと努力していることは、読めばわかるのです。ただ「わかる」ということ、「理解する」ということは、それまでの経験に微妙なアヤをつけて、わかったことにすることでもあるのです。それまでの経験のごく近くに移動することです。「わかる」ということは、相当狭い範囲の経験だと感じられました。》
●そして、自身として最初のオートポイエーシス論となる本を出す。
《そこで問題だったのは、『オートポイエーシス—第三世代システム』を書くことによって、いったん「オートポイエーシス」論というものが、比較的きれいに定式化できてしまったということです。とりあえず定式化されてしまっているから、もうあらゆる企画が、「オートポイエーシス関連でこれを書いてくれ」という話として自分のところにも来るのです。》
《したがって、オートポイエーシスはこういうことですなどと言って解説してみせる、ということだけはやってはいけない。これはもううんざりするほどいろいろな場面でお目にかかることですが、すでにある基礎的な理論に沿って、さまざまな領域を解説してみせる。ところが、とたんにうんざりするような解説ができあがる。》
オートポイエーシスというのは、あらかじめ設定された観点であってはいけないのです。オートポイエーシスをあくまで道具として活用したい人は、経験を先に進めるときに、傍らにいつも手掛かりとして置いておいて、それを横目で見ながら、なおかつ前に進むという、そのように配置しておくのが一番いい。つまり理論の「間接的活用」ということがとても重要なのです。
あくまで前に進むための手掛かりにしているのであって、それを使っていろいろなことを説明したり、わかったりする理論ではないのです。かりにそうだとすれば、立場や観点になってしまいます。》
《(…)周囲からそれはダメだ、まずいと言われても、自分にはそう思えない場合には、自分のやっていることを「立場」や「観点」から評価してしまっていることが多いのです。この場合には、聴く力が落ちてしまっていますから、いろいろと自分なりにわかることに飽きていく必要があるのですが、「立場」や「観点」の本性上、飽きるための機会を逸してしまうことが多いのです。わかったときにはすでに経験は狭くなっている、というのが経験の本性です。》
●成功は忘れなければならない。「過去に生きる」というやり方とは違うやり方で過去を活用する。
《(…)こうして一度使った理論やノウハウといったものは、忘れなければならない。忘れなければものにならないのです。忘れるということは、捨てるということとは少し違います。忘れるということは、自分のなかにあった無駄のようなものがおのずと捨て去られ自分のなかに組み込まれて、経験のなかで貫かれているものだけが生かされているということです。》
《ごく普通の日常生活においても、楽しかったことが、忘れられることによって自分のなかにちゃんと入っているというような経験を作る。それはつまり、忘れるということのきっかけは、「何度も過去に生きてしまうこと」に飽きてしまうということなのです。過去に生きてしまうことに飽きてしまう。その「過去に生きる」というやり方とは違うやり方で過去を活用するという「選択」がここに生まれているのです。》
《そうしたとき、まず心掛けなければいけないのは「速度を遅らせる」ということです。速度を遅らせるとはどういうことかというと、頼まれたら、頼まれた仕事をともかくやるという状態とは対極にあることです。毎日毎日いろいろな経験をする、その経験の速度を遅らせるということを努力してやらないといけない。
それはまた、日々、自分のなかで経験がすごい速さで動いてしまう、そのことに対して、飽きてゆくということなのです。飽きるということは速度を遅らせるという面をもちます。速度を遅らせて、選択肢を開くということなのです。
ですから、自分の身に引きつけていえば、私のオートポイエーシス構想に対して、いろいろな議論があり、いろいろな批判ももちろん出る。ただ、それに対して、そのつど反応しない。反応せず、速度を遅らせていく。そうすると隙間が開いて、自分のなかに選択肢が生まれてくる。この選択肢のなかで、次に自分で前に進んでいけそうなところを探り当ててやってゆくということです。「なんだかなあ」と言いながら、速度を遅らせながら、少しずつ隙間を開いてゆく。それが、飽きるということのかなり重要な効果なのです。》