●必要があって、「エンドレスエイト」を観直していた。ぼくはこれを何度も通して観返しているのだけど、何度見ても、八回の繰り返しにはどうしても飽きる。しかし、飽きるほど繰り返されるという経験そのものは、縮減できない。
この作品を「飽きながら」観ていて思ったのだが、人工知能にこの八回分を入力してやれば、文字通りに15532回分の、同じ物語の微妙に違うバージョンをつくりだすことは可能なのではないか。そして、15532回繰り返された八月最後の二週間の似たり寄ったりで微妙に異なるエピソード(経験)群が、どのように相互作用して最後の「結論」に辿り着いたのかというところまで計算して、15532回分の細部の配置をつくることもできるのではないか。それはいわば「統計的伏線」というべきもので、人間が普通にそれを観ただけではその伏線は理解できない。そもそも人間には15532回分の、基本的に同じで細部が微妙に違うだけのアニメを観続けることができないわけだけど。
エンドレスエイト」において「15532」回という数字は、人間には理解(実感)しがたい「統計的伏線」とでも言うべきものを、なんとかイメージさせるための比喩として機能していると言える。この比喩はもう一方でデジャヴという形象としてもあらわれている。しかし人工知能は、それを比喩としてではなく、実体験として経験する。
アルファ碁は、強くなるために自分のコピーと3000万局も対戦したという。人間が生まれてから死ぬまで囲碁のことだけを考えたとしても、そんな数の対局を経験することはできない。だから人間は、人工知能に対して「経験」が圧倒的に不足している。人間は通常、経験の不足を、物語的な縮減や習慣のようなもので補っていると思われる。物語的な縮減とは、自分では決して実行しようとはしない「15532回繰り返す」「3000万回繰り返す」という行為を、その数字の量的な大きさのイメージによって理解しようとするということだ。せいぜいが、八回繰り返して「飽きる」ことを通じて、それを拡大して15532回をイメージしようとするくらいだ。
だから人間には常に「経験」が足りない。この足りなさを補うものとして「習慣」というものが考えられる。習慣は個体を超えて伝播することにより、個の経験の不足をカバーし得る。囲碁のチャンピョンを支えているのは、彼自身の天才だけでなく、人間が今まで囲碁を行ってきたことの蓄積だろう。しかし、そこも人工知能に超えられた。
あるいは、人間の身体(あるいは生物の身体)は40億年にも及ぶ生物進化の結果としてあることを考えれば、かなり膨大な「繰り返し実行する」という経験が身体には織り込まれていると考えられる。この、40億年にもわたる「繰り返し実行する」経験が効いているうちは、人工知能に対する優位は保てるのかもしれない。
とはいえ、ウサギとカメ以上の明白な「経験の速度差」があるのだから、この「40億年分の貯金」が、いつまでもつのかは心許ない。