●「計算」というもののことをずっと誤解したいたのかもしれない。あらかじめ目的があり、その目的に向かって最適化をめざすものだけが計算ではない。あるいは、なにかを管理し、調整することだけが計算の目的ではない。なぜ計算するのかといえば、計算しなければ解が得られないからするのだとすれば、計算するということはまさに解を創造するということだ。
計算というのは、計算を実行するということだ。だから、計算と物語は異なる。夏休みを15532回繰り返すという計算は、実際にそれを15532回繰り返して実行するということであり、15532回繰り返しましたとさ、という物語を語ることは違う。そして、計算を実行することによってしか、未知の解を導くことはできない。物語は、既知の解しか導かない。
(物語とはいわばコンセプトであり、我々は新鮮なコンセプトを常に求めているが、コンセプトは何かしらの計算として実行されなければ、未知の解――創造――へとたどり着かない。)
(あるいは、計算によって「未知の物語」が導かれるかもしれない。)
●計算はステップを省けないが、物語はステップを省くことができる。複雑な、あるいは単調で長大な、計算の過程のすべてを憶えておくことはできないとしても、その概要を物語として把握することはできる。そしてそれは、計算の実行(あるいは、再検討や反省)のためにも有益であろう。ただ、物語は計算そのものではないことは意識されなければならないだろう。
●直観は、ステップが無意識化された計算かもしれない。脳が勝手に計算し、その解だけを意識に伝える。逆に言えば、よい直観を得られるような脳にするには、様々な計算を実行するレッスンの必要があるということではないか。
人工知能は、我々が自ら15532回の夏休みを実行しなくても、ずっと高速に、何の苦も無くその計算を代行して、解を導いてくれる存在となるのかもしれない。我々自身がやるとしても、コンピュータがやってくれるとしても、計算は実際に行われなければ、解は生まれない。ならば、人工知能は、我々の無意識を途方もなく拡大させる、無意識代行装置となる、ということも考えられる。
●計算は、思考の主体が「論理」である形式的変換操作なので、間違えない限り「誰」が計算を実行しても(解を導いても)同じということになる。実行=経験した者でなければ分からない、ということではない。
(しかし、計算によって得られた解を「理解できる」かどうかは、それを理解する側の能力や経験に依存する。)
イ・セドルはアルファ碁との対戦の後で、「とても楽しかった」と言い、「これまでの知識が正しいのか疑問に感じた」と言ったという。アルファ碁は、孤独に3000万局もの対局という計算を実行し、それによって得た(創造した)囲碁の新しい地平を、棋士に伝えてくれたと考えることもできる。