●『建築と日常』(No.3-4)に載っている「建築は演算によってのみ出現する」(岡粼乾二郎)に次のようなことが書かれている。
《また加えれば、開かれた演算可能性とは、さまざまな出来事が起こり得ること、事件が起こることと同じではない。事件も出来事も計算外のことを指すのであれば、計算しないところに事故はあるまい。また反対に事故、出来事と、はじめから名指せるのであれば、それが対象として措定されている以上、演算に組み込まれなければならないことになる。一言で言えば、事故や出来事を肯定的に語るのは演算回避を意味するにすぎない。事件が起こる可能性、出来事が発生する可能性をポジティブな可能性のように語ることは欺瞞である。》
これは大変に鋭い指摘であろう。出来事が計算外のことであるなら、計算のないところに出来事はなく、また、出来事が事前に(縁取りなどによって)対象化可能であれば計算に組み込むことが出来るので、それは出来事と呼ぶに値しない。故に、出来事をポジティブな可能性のように語るのは欺瞞である(出来事はネガティブにしか語れない)、と。
出来事は事後的に知られるのみであり、しかし知られたらその時はすでに出来事ではなくなっている(出来事は事前にも事後にもない)。しかし我々は平然と、「出来事」などという言葉を、さも対象化が可能であるかのように使用してしまっている。あるいは、使用出来てしまう。
この、「使用出来てしまう」という事態を、欺瞞と呼ぶべきなのか、奇跡と呼ぶべきなのか、という態度の違いがありえると思われる。
未知のもの、想定外のものを、「未知」「想定外」という言葉で事前に名指すことで対象化してしまい(さも、対象化可能であるように振る舞い)、何かが起こった後で、事後的に、その「未知」や「想定外」の意味のなかに、事前には想定出来なかった「何か」を繰り込むことで、(世界は、時代は、不可逆的に変化したのだなどと言いつつも、というか、そういうことを平然と言えてしまうということこそがその何よりの証拠なのだが)「対象化」という作用だけは、平然とそのままに、無傷のままにしておくことが出来てしまう。これは欺瞞であるとしても、このような欺瞞(≒奇跡)が可能な者だけが生き残ることが出来るのではないか。
さらに言えば、人間(というより生物、生命、あるいは中枢)というものは、ここで「欺瞞」と言われる機能そのもののことなのではないか、とさえ思う。だとするならば、我々に、この「欺瞞」を批判することは可能なのだろうか(こういう言い方は、ペシミスティックでありすぎるのか)。