●「Asian Art Award」の谷口暁彦「何も起きない」について。この作品で重要なのは、ディスプレイに映し出されている出来事がリアルタイムでレンダリングされているというところにあるのだろう。それは、今、計算機のなかで起きていることが映像へと変換されてディスプレイに表示されている。
つまり、「何も起きない」で起きていることは、「今」起きていることだ。ぼくが観ている時、室内で腹筋運動をする人(不思議生物)は、テーブルがあるにもかかわらず、それをすり抜けるように腹筋運動をしていたし、交差点では、車が三台重なってその部分だけフリーズしていた。そのようなエラー(出来事)は、記録された映像、あるいは予定された段取りではなく、今、計算機のなかで起きている出来事(エラー)だろう。
しかし、その「今」とはどこにあるのか。確かに、計算機は、それを観ている観客と同じ世界にあり、それを観ている観客と同時に計算が実行されていると、一応は言える。しかし、計算の結果として形作られた映像世界は、この世界とは切り離されているので、映像世界の「今」と、それを観ている我々の世界の「今」とを、どう比較すればよいのだろうか。実際、映像世界の一日は、それを観ている我々の一日よりずいぶん短いようだ。しばらく見ていると、ほどなく夜は明けていき、そしてまた少しすると暮れていく。彼らが、まったく異なる時間のリズムで生きている(?)以上、彼らの世界が、まったく異なる時を刻んでいる以上、こことそれとを同時と言ってしまってよいのだろうか。
今、計算が実行されていて、その結果が、今、随時刻々と現れている、としても、計算する時間と、その結果の時間を、同時と考えてよいのだろうか。計算と、その結果は、同じ時間の内にあると言えるのだろうか。たとえば、脳がなにかしらのとても複雑な計算をしている。そして、その結果として、「わたし」は時間の感覚を得る。この時、脳が計算している時間と、「わたし」が感じている「今」とを、まったく同じ「今」としてしまってもよいのだろうか。「わたし」が感じている「今」や「時間の感覚」は、脳の計算の結果として、脳とそのプログラムによってヴァーチャルに与えられた(生みだされた)「今」であり「時間」であって、機械としての脳が「計算すること」そのものを可能にしている、基底的な「時間」と同じ(同時)とは言えないのではないか(たとえばイーガンの『順列都市』が想起される)。双方は、きわめて密接に相関しつつも、どこまでも分離されているのではないか。
「何も起きない」において、「計算機」が計算している時間は、それを観ている観客と同時にあるが、しかし、映像としてあらわされている(現象している)世界の時間は、比較のしようのない、まったく別の(まったく別の速度をもつ)時間と言えるのではないか。それはもしかしたら、わたしの脳の計算によってヴァーチャルに出現している「わたしの今」と、あなたの脳の計算によってヴァーチャルに出現している「あなたの今」とが、本当は比較することすら困難な「別の今」なのではないかという考えにもつながる。
「何も起きない」という非常に不思議な作品を前にして、このようなことを考えていた。
ただ、一つ、机の上にパソコンを載せた部屋で不思議生物がネットをチェックするという場面がある。おそらく、ここでパソコンの画面にあらわれているツイッタ―のアカウントなどは、それを観ている観客が同じURLにアクセスすれば、同じものが表示されるようになっていると思われ、その意味で、向こうの世界も、この世界と同じネットに、リアルタイムで繋がっていると言える。それは、こちら側にいるわたしたちの「今」と、向こう側の不思議生物の世界の別の「今」とをつなぐ紐帯のような役割をもつだろう。
それはあたかも、多くの人が地上波で放送される「ラピュタ」を観ながら同時に「バルス」とツイ―トするような形での「同時性」を形作っているかもしれない。しかしその「同時性」は、あくまでインターネットを媒介とすることで生じる(創造される)同時性であって、観客が観ている、「今、ここ」で(ディスプレイのすぐ足元で)計算が行われているということによって保証される「同時性」とは別のものなのではないだろうか。
いや、ほんとに不思議な作品だなあ、と。