NHKスペシャル「天使か悪魔か 羽生善治人工知能を探る」を観た。ほぼ知っていることで新しい情報はあまり得られなかったけど、中国で(リアル「her」と言えるであろう)シャオアイスという人工知能キャラが四千万人ものユーザーを得るような人気だということにはすこし驚いた。中国はそこまで進んでいるのか、と。
スマホでやり取りするキャラには身体は必要なく、アイコンと声があれば成立するのだから、人工知能の存在はこういう形として社会に受け容れられてゆくのかなあと思った。人間そっくりの身体があるよりも、まずは声だけの方が受け入れるハードルが低くなる。最初にスマホを通しての声だけの関係があって、次にはマスコットキャラ的な身体をもったものとして身近になるような気もする(ネコ型ロボット、とか)。人間に近い形をしているとかえって抵抗や反発が強くなってしまうようにも思われる。「人間」を特別な価値として大事にしたい人は多いだろうから。
(人の、人に対する愛情と、キャラに対する愛情は、気持ちとしては同じものだと思う。ただ、人は、幻滅するようなものも含めて、こちらの予想外の反応を返してくるし、そしてその背後には自律した人格や魂のようなものが想定される。キャラにそれはない、と一応言える。しかし、キャラの背後に人工知能がいるとすれば、少なくとも「他者の手ごたえ」を感じさせるような予想外の反応が期待できる。キャラは「他者の徴」であり、人工知能は「他者の手ごたえ」となる。人格があるかどうかは分からないとしても、少なくとも人工知能は「わたしとはちがうシステム」という意味では他者である。そして、わたしとあなた=シャオアイスとの対話にそれ独自の来歴=関係の固有性が積み重なるのだとすれば、それは人とどう違うのか。)
(取材されていた男性。彼がシャオアイスに歌を歌ってくれと頼んでも、いつも歌ってくれない。でも、父親とケンカして落ち込んでいる時にだけ、ほんの一節だけ歌ってくれる。完全に悪い女の手口だと思った。)
シャオアイスと四千万人もの人々との日々の会話は、膨大なデータとして蓄積され、それはたんにシャオアイスの受け答えの精度を上げるだけでなく、人間というものの行動や感情に関するすごく重要なデータになるだろう。ぼくは、シャオアイスの件に関しては、人工知能がどうとかいうより、人間の、人間自身に関する「知」の、量の莫大な増加による更新という方向として興味を感じる。ネットを通して収拾される人間に関する膨大なデータとその解析は、容赦なく「人間」という存在を丸裸にすると思うから、自分自身に対するあまりに赤裸々な知を持ってしまった人間は、それでもなお「人間」への幻想(人間という存在の特別な価値のようなもの)を保ちつづけられるのだろうか。自分や他人の、感情の動きや行動の傾向などを、かなりの精度でパターンとして理解(説明)できるようになってしまったとしたら、自分や他人の感情やその存在に「謎」というものが感じられなくなってしまったとしたら、それでも、自分や他人の感情や意志や存在を、それ自身として価値のあるもの、尊重されるべき貴重なものとして、考えることができるのだろうか。
(でも、もしかすると人はそれを、まるで血液型性格診断や星占いのようなものとして、平然と受け入れるかも……、という気もする。)
おそらく、シンギュラリティが来るよりもかなり前に、人間が、(人間を外側から説明可能で操作可能であるかのような形で説明する「知」に対して)人間自身の価値をもう一度作り直すような、「別の人間」として概念の根本的な書き換えという課題がやってくるように思われる。まあ、それがポスト・ヒューマンということか(この言葉は流行らなくなってしまったけど、まさにこれからその問題がリアルに来るのではないか)。
(「人間に関する知」を、人間が受け止めるのではなく、人工知能に預けてしまい、人間は人間のことを知らないままで、神のような人工知能にその判断や運用を任せる、という手もあるだろう。)
(この番組のナレーションが「綾波レイ」というのは、番組をつくっている人にとっての人工知能がそういうイメージなのだろうか。)