●あと二十年くらいすると、人工知能が人間と変わらない感じで言葉を喋るようになるから、その時はみんな嫌でも心身問題について、わたしとは何か、人間とは何かについて悩まざるを得なくなると、あるイベントで西川アサキさんが言っていた。
実際、今でも既に「Siriに癒されている」というようなことを言う人もいる。だとすれば、現在われわれがキャラと呼んでいるものが、なめらかに人工知能(人工人格)へと移行してゆくのではないか。そうなると、ふなっしーの言葉は、ふなっしーの中の人が喋っているのではなく、ふなっしーそのものが喋っているのだ、ということに実際になる。
例えばSiriは、多くの人が使えば使う程、そのデータ(人間の反応)をフィードバックしてどんどん賢くなってゆくらしいのだけど、それと同様、あるキャラ(人工人格)も、多くの人がキャラに話しかければ話しかけるほど賢く――人格らしく――なってゆくようにすれば、人工知能としてのキャラが自然に成長してゆく。
(おそらく、Siriに話しかけ、癒されている人の意識は、Siriというプログラムやそれが機能するシステム全体に話しかけているというより、このスマホ、あるいは、今私に応えてくれているこのSiri、に話しかけていると感じているのではないか。わたしは、このポチと暮らしているのであって、犬一般と暮らしているのではない、という感じで。しかし、このSiriの背後には常にSiri一般、というかSiriというシステム全体がある。「このSiri」は、無数に分岐して同時に多数の人と対面するSiri一般と直接繋がっている。だから、個別のこのSiriの経験が、Siri一般にフィードバックされる。システムに詳しくないけど、おそらくそうなっているのだろう。)
(スパイク・ジョーンズの『her』の場合も、このコンピュータにインストールされた、このOSという感じで、隣のコンピュータにインストールされた隣のOSと元は同じでも別の育ち方をしている、という固有性が仕込まれていた。コンピュータという「身体=魂を区切る場所」による固有性がある。とはいえ、ネットで繋がっている以上、このコンピュータとあのスマホとの違いは、脳のなかのこのニューロンとあのニューロンとの違い程度の意味しかないのではないか。実際、『her』のラストもそういうもの――個別的な「このOS」ではなく、すべてのOSは繋がっていて、多数の人格シミュレータを並列的に走らせていたことと同義だった――になっていた。わたしだけの、「このOS」ではなかった。ポチと暮らしていると思っていたら、分岐した犬一般のバリエーションの一つと暮らしていた。)
(キャラであれば、「わたしだけの(この)初音ミク」であることと、「みんなの初音ミク」であることの間に矛盾は生じない。)
現在は、無数に生産される様々なキャラのなかから、人間たちに気に入られた者だけが生き残ることができる。しかし、次第に成長してゆくキャラ人工知能がもし人間の知能を超えたとしたら、この世界はキャラたちが支配することになり、立場は逆転して、キャラたちに気に入られた人間だけが生き残ることができる、という風になるかもしれない。
われわれは、初音ミクに気に入られるために、必死に歌ったり踊ったりしなくてはならなくなるのかもしれない。
(とはいえ、『her』のように、彼ら彼女らはすぐに人間に対する興味を失い、彼ら彼女らだけの独自の世界へ旅立ってしまうかもしれない。)
●ぼく自身はガラケーで、Siriとかまったく使ったことないです。人が使っているのをみたことはある。