●DVDを観て過ごした。
●シャブロル『最後の賭け』。すごいこれ。隅から隅まで洗練されまくっている。初期のヌーベルバーグが夢見たものの実現というような作品なんじゃないかと思った。ただ、このような完璧に贅沢な美食みたいなものを前にするとなんとなく居心地の悪さを感じてしまう貧乏性なので、ぼくの個人的な趣味としては、洗練が行き過ぎてすごく妙なことになってしまっている最晩年の『刑事ベラミー』とか『引き裂かれた女』の方を面白く感じてしまうのだけど。
ジョン・エリック・ドゥードル『デビル』。シャマランの原案・製作で若手の監督が撮るというシリーズ。そうなるとどうしても「シャマラン」を期待して観てしまうことになる。実際、冒頭の上下逆さの空撮は素晴らしいし、映画の滑り出し部分には濃厚にシャマランの気配を感じさせるものが漂っているので、おーっ、シャマランだ、と思って気分が盛り上がる。物語そのものも、あきらかにシャマラン的だ(シャマランの映画を何本か観た人ならかなり早い段階で結末が予測できてしまう、というような意味でも)。でも、やはりシャマラン自身が監督をやらないと「あの感じ」は出ないのだなあと思った。けっしてつまらなくはないとしても、特に面白いとも言えないホラー・サスペンスという感じ。
黒澤明『白痴』。実ははじめて観た。というか、何度か観たことがあるのだが、最後までちゃんと観たのははじめて。とても面白かった。作品としてみれば、上手くいっているところより上手くいっていないところの方が多いと思うけど(正直、けっこう退屈な場面も多い、今まで最後までちゃんと観ていなかったのもそのため)、あり得たかもしれないもう一人の黒澤明の可能性を感じさせるような作品。おそらく、評判も興行成績も悪くて路線変更をせざるを得なかったのだろうと推測するけど(この時の作家の無念さを想像するとちょっと冷静ではいられなくなってしまうのだが)、この方向であと何作かつくっていたら、全然ちがう世界がすかんと開けたのではないかと思った。気合の入り方も半端ではないように感じられた。ところどころでソクーロフを感じさえした。小津が一貫してアメリカの方を向いていた(アメリカ映画の影響から自分の作風を確立させた)のに対し、黒澤はずっとロシアの方を見ていたのだなあと感じた。その傾向が極端に強く出ているのがこの作品なのではないか。フレーミングモンタージュも、アメリカ的であるというよりソ連的であるように思う。
圧倒的なのはやはり、映画全体のクライマックスと言える原節子久我美子が対面(対決)する場面で、映画において「顔」が一人の人物(俳優)から離脱して(そして空間的な秩序からも離脱して)純粋な表現にまで高まる瞬間がみられる。原節子が素晴らしい「顔」の女優なのは例えば小津の『晩春』などを観ても思う。前半ずっと、幸福そうにニコニコ笑っていたのが次第に変化してゆき、終盤には、生身の人間がこんな顔をすることがあり得るのかと驚くくらいに、無表情の内側に鬼を宿しているようなすごい顔になる。ただ『晩春』ではあくまで無表情の内に凄味を宿すのだが、『白痴』ではもっと表現主義的につくられた顔で、「顔」の形象そのものが表現となる。原節子のこの圧倒的な顔に、久我美子も、かなりがんばって拮抗している。