●『アンブレイカブル』(M・ナイト・シャマラン)をDVDで。随分前に一度見ているのだが、けっこう忘れていた。一人で見ていたのだが、最後のところを見て思わず、「これがオチかよ」「これがオチかよ」「これがオチかよ」と、念を押すように、何か見えない存在に向かって確認するかのように、三回も繰り返して口にしてしまった(以下、みもふたもなくネタバレ)。
『アンブレイカブル』では、主人公であるブルース・ウィリスが登場するよりも先、映画の一番最初に、サミュエル・L・ジャクソンが演じる人物が誕生している場面ではじまる。つまりそれは、この映画がブルース・ウィリスが演じる人物が中心にいるのではなく、あくまでサミュエル・L・ジャクソンが演じる人物のための映画であることを示しているだろう。ブルース・ウィリスは、サュエル・L・ジャクソンによって生み出された人物なのだった。
ブルース・ウィリスは、列車事故によって生まれた。それ以前の彼は、隣りに座った女性を口説こうとして失敗するような、冴えない、誰でもない誰かに過ぎなかった。そして彼は、「たまたま」列車事故の唯一の生き残りとなった。その偶然が、遡行的に、彼の「過去」を作り出した(作り直させた)と言うべきだろう。そうでなければ、自分が過去に、病気や怪我をしたことが一度もないということを知らない(憶えていない)などという設定が成り立つはずがないのだ。自分だけが生き残ってしまったことと、サミュエル・L・ジャクソンによる「はたらきかけ」によって、ブルース・ウィリスは自分の過去を少しずつ思い出し=作り直してゆき、あたらしい人として生まれ直すのだ。この映画の異様さは、このような因果関係の逆転、あるいは時間の逆行が描かれている点にこそある。彼は、もともと不死身である運命を持っていたから事故で生き残ったのではなく、たまたま事故で生き残ったからこそ、その偶然によってはじめて「最初から不死身であった」という運命が彼に取り憑くのだ。現在時の偶然が、遡行的に波及して過去をつくり変える。この転倒は、物語(因果律)というものがそもそも、現在の時点(の必要性)から振り返って過去を語り(直し)、過去を組み立てる(組み立て直す)ものだという、物語という行為そのものに内在する転倒を明らかにしている。だからこそ気持ち悪いし、リアルなのだ。そしてその事故がそもそも、サミュエル・L・ジャクソンの手によって仕掛けられたものだとするのなら、新たな運命のもとに、新たに生まれ変わったブルース・ウィリスという存在は、サミュエル・L・ジャクソンの手によって作り直された存在であると言える。先天的に骨が弱く、生まれた瞬間から既に手足を骨折していたという彼の運命こそが、ブルース・ウィリスの「不死身さ」を必要とした。彼の、先天的な骨のもろさという不幸が、その反転的な形象として不死身のヒーローを作り出した。だからここで、正義のヒーローであるブルース・ウィリスと、悪の化身であるサミュエル・L・ジャクソンとは、はじめから拮抗し対立する二つの力の顕在化としてこの世界に存在するのではなく、サミュエル・L・ジャクソンの不幸が先にあって、その要請(妄想)によって不死身のヒーローは「後から」つくられるのだ。だからブルース・ウィリスは、サミュエル・L・ジャクソンの妄想が現実世界へとせり出した、現実化した妄想、実在する妄想上の人物であろう。
この映画の時間のほとんどは、ブルース・ウィリスが過去を思い出し(つくり直し)、自分が不死身の存在であることを受け入れる過程を描くことに費やされている。ここにも、この映画の異様なリアルさがある。勿論、あたかも自分自身によって自分自身を発見した(自己実現した)かにみえるブルース・ウィリスは、実は、サミュエル・L・ジャクソンの妄想に支配されていただけなのだ。彼は、突飛な妄想に簡単に騙されるような男ではない。不死身のヒーローなどというバカげた話よりも、実際に目の前にある問題、妻との関係の改善や、愛する息子との関係の維持の方がずっと大事だと思っている堅実でしっかりした男なのだ。しかし、そんな男でさえも、ゆっくりと時間をかけて、少しずつサミュエル・L・ジャクソンの妄想へと染め上げられていってしまうのだ。さまざまな「しるし」が時間をかけて彼を説得し、その気にさせてゆく。そして、彼はとうとうその気になって、正義のヒーローとしての活動をはじめるに至る。だが、ここまで、徹底的にアクションを封じられたアクションスターであるブルース・ウィリスが、ようやく活躍するのかと思えば、この映画では、強盗をやっつける彼は、まるで子泣きジジイみたいに、強盗の背中にひたすらへばりついているだけなのだった。
映画のラスト、サミュエル・L・ジャクソンとの握手によってすべてを悟ったブルース・ウィリスは、自分自身が彼の妄想によってつくり直されてしまった存在だと知る。ここで彼は、新しく生まれ変わった「不死身のヒーロー」という自己像にまったく執着することなく、あっさりとサミュエル・L・ジャクソンの罪を警察に通報し、サミュエル・L・ジャクソンが演じる人物が「現在は重度の精神障害者の施設にいる」という字幕が出て、あっさり映画は閉じられる。ここで、自己像にまったく固執しないブルース・ウィリスのあっけさなもまた、この映画のすごく不思議なところだ。
しかしそれにしても、シャマランはすごく変で面白い監督だと思う。そこまでずっと、世界の基盤を支える基底的なことがらだと思っていたことが翻され、世界がまったく別物へと反転してしまうという場面は、『シックスセンス』においても『ヴィレッジ』においても訪れるのだが、これはたんに、あっと驚くどんでん返しというだけのことではなく、シャマランが感じている世界の感触のリアルな表現なのだと思う。しかしもう一方に、あきらかに薄っぺらな妄想の世界なのに、それが決して裏返ることなく(つまりリアルな世界が訪れることなく)、出口が塞がれてしまったままだ、という映画もあり(『サイン』、『レディ・イン・ザ・ウォーター』、そして『ハプニング』も)、つまり、シャマランにとって、世界は表も裏も、どちらも共に薄っぺらな妄想でできていて、さらに、そのような妄想でさえ、それを安定的に走行させる基盤が成り立たないから、ちょっとしたことで簡単に真逆の世界へと反転してしまう。だから本当は、どんでん返しがあったからと言って、その先が真実の世界(答え、解決)だという保証はどこにもないのだ。