もう少し、『こんなとき私はどうしてきたか』

07/09/18(火)
●もう少し、『こんなとき私はどうしてきたか』(中井久夫)から引用、メモ。
《ただ、妄想は病気の本体ではありません。妄想というのは、なんといっても世界の一部分の出来事にすぎません。CIAだって何だって宇宙のごく一部にすぎません。世界が、宇宙が、全体として恐怖そのものになるのが発病のはじまりにありますから、それに比べれば妄想は何ほどのこともないと言った患者さんがいます。
これは以前も強調したことですが、妄想とか幻聴というのは、たぶん外に目を向かせるための生命的な一つのトリックなんでしょうね。というのは、形のない恐怖に直面するというのはものすごく怖いですから。まったくの暗闇を歩くのは怖いでしょう? ちょっと何か見えたら、すがりたくなるでしょう? それと同じでしょう。》
《病的な面に注目するのは、熱心な、あるいは秀才ドクターの陥りやすい罠です。私も何度かそういうところに陥ったし、まわりにもそういう人を見てきました。精神病理学者に多くのものを与えた患者の予後はよくないのです。(略)
すごく精密に病状を教えてくれると私はどうしてもそれをノートにしてしまうし、膝を乗り出して聴くでしょう。患者の方もそれに応えてくれる。しかしそういうことを中心にしますと、患者の人生はだんだん病気中心になってしまう。病的体験中心の人生になる。(略)
驚くべき病的体験、たとえば世界が粒々に分解するというような、まだ誰も報告していない現象を話してくれる患者がいるとします。その彼が友達と映画を観に行ったり、ベースボールをしたり、喫茶店に行ったりしたことを、私は驚くべき病的体験の話よりも膝を乗り出して興味をもって聴けるか。----じつはそれは、医学部に入ってから何十年経った人間、医者の世界で生きてきた人間にはとてもむつかしいことです。
この点は、看護師の世界はそれほどではないかもしれない。あるいは、たいていの患者は看護師が健康な面に光を当てているからこそ治るのかもしれません。医者もベースボールの話をもっと膝を乗り出して聴けるようにならないといけないのでしょうね。(略)
ちなみに中国医療のすぐれたところは、それを意識しているかどうかわかりませんが、患者に食物などの「好み」を聞くことです。人生をそういう面からとらえようとするわけですね。》
《慢性の患者さんがよくなってきた場合には、いまの自分の治療努力が実ったと思うのはちょっと待ってほしいところです。それはどうかわからない。むしろ何年も前の人の努力のぶんが多いのではないか。(略)
サリヴァンは、強迫症患者について、「こちらが話したことを半年後に自分の意見のように話してくる。それでよいのである」と言っています。では統合失調症はどうでしょうか。三十年以上入院しつづけていた二人の男性患者に対して私が三年間アートセラピーをおこなった経験は、まったく不毛でありました。びくともしなかったわけですが、絵や粘土細工は続けました。その後三〜四年たって、そこのドクターから、私の診ていた患者は何かが変わってよくなってきた旨の連絡を受けました。強迫症が半年なら統合失調症で入院三十年の方々に三〜四年後に曙光がみえたのは、むしろ早いくらいではないでしょうか。長い入院の方々にはまるで古い時期からの精神医療の地層が重なってみえる方がありますが、それでも何十年後、おだやかなかかわりの、いわば「微量持続点滴」によって大きく変わってきたことをケース研究会で聞きました。匙はなかなか投げられません。》