『こんなとき私はどうしてきたか』(中井久夫)

●『こんなとき私はどうしてきたか』(中井久夫)。折に触れて、何度も読み返すだろうと思う素晴らしい本。この本は、あくまで実践的な本だ。まず第一に、この本は、精神科の病棟で働く医師や看護師に向けたレクチャーを本にしたもので、その意味で実践的だ。そして、それをぼくのような、医療関係者でない者が読むとしても、それは自分の「精神」という、自分にとっても不可解で扱いづらいものに、どのように対処すればよいのかについての知恵に満ちているという点で、実践的なのだ。この本での中井久夫の知性は、分析的、分節的なものではなく、実践的であって、いわば「おじいさんの知恵袋」(いや、それは言い過ぎかも)のようなものだ。
人間にとって精神とは、それがいかに単純にみえる時でも決して単純なものではない。それが単純に見える時、その単純な出力は、表に出てこない複雑な演算の結果として出力された「(装われた)単純さ」であるのだ。その点が考慮されない時、人は、自分に対しても他人に対しても判断を誤り、おそらくとても暴力的に接することになってしまう。中井氏はリベットの『マインド。タイム』を参照しつつ書く。
《われわれの無意識的な「判断」では、だいたい一〇の七乗(1000万)レベルのビット数(情報の最小単位)のデータを脳が分析して結果を出してくるのだそうです。これはまったく意識されません。
これを吟味するのが、だいたい二〇ビットぐらいのデータ。情報単位で二〇ビットというわずかなデータによって、意識がいま思いついたこととして吟味する。この間は約〇・五五秒です。》
一〇の七乗ビットレベルの情報が、ほんの二〇ビット程度の「意識」によって翻訳される。人間の精神において、入力と出力との関係がかくも不可解で不安定なのは(決して「合理的」な判断によって人が動かないのは)、おそらくこのような理由による。人は、意識的には、自身の内部で行われている、この一〇の七乗ビットレベルの演算の内実については、何も知らないということだ。だから、どのような入力が、自分自身に一体どのような影響として、いつ(どの位の時間的なズレをもって)あらわれるのか(出力されるのか)は、まったく予想できない。人間は、自分の頭のなかに、このような途方もなく危険なものを抱えている。それを自覚する必要がある。だからそれに対処する時、分析的、分節的な(合理的な)知だけでは決して充分ではなく、蓄積された経験的な知恵の助けが、不可欠となるのだ。(このような事実(「知恵」の有り様)を、支配的、伝統=束縛的なものとして不快に思う人がいるのも納得出来るが、これはおそらく科学的にどうしようもないことなのだと思われる。)
中井久夫という天才的な精神科医は、この「一〇の七乗ビット」の分厚い壁を通してしか触れ得ない人間の精神を、壁ごしに手触りによって触知し、そこに働きかける術に長けているのだろうと思われる。そのような医師の長年の臨床の経験によって得られた知恵が、この本には詰まっているように思われる。自分が、「今ちょっとヤバいんじゃないか」と思うような時、この本があることが心強いのではないかと思う。
●この本には、心を動かされるエピソードが沢山書かれているのだが、そのなかの一つを引用する。
《ましてや幻聴ですからね。消えるとさびしい。消えてもさびしくないときに、おのずと消えるんです。逆に、情報から遮断されているときには、幻聴はいつまでもある。
二〇年以上入院している、もうおじいさんの患者さんがいました。奥さんは亡くなっているんですが、「奥さんが生きている」という情報が、テレビから入ってくるって言うんですね。「きみはそのコンピュー(彼はテレビをコンピューと呼んでいました)が言っていることをほんとうだと思うの?」と聞きましたらね、「いや、ほんとうかどうかわかりませんが、ほかに知る術がないじゃないですか」と。
情報を得るためのソースが、ほかにはないんだということですね。私は「そうだねえ...」とため息をついたものです。夫人の生存については「そうだったらどんなにうれしいことだろう....けどね」と、かすかに現実をにじませながら答えたわけです。哀切な話ですね。》
ここには、人間というものの存在の有り様が凝縮されてあるんじゃないかと思う。(テレビを「コンピュー」と呼ぶところなど、何と言ったらよいのか.....。)
●「一〇の七乗ビット」の情報を縮減して「二〇ビット」程度の「意識」へと滑らかに翻訳出来なくなることが、統合失調症になるということなのだろうか。言葉は、一つのことしか意味しないからこそ、患者にとって救いになるということが書かれている。
《たぶん妄想とか幻聴というのは、いっぺんに一つのことしか頭のなかに浮かばないようにするためにつくられているんだと私は思います。言葉というものはそういうものですからね。せめてもの「守り」なのでしょう。
この病気の初期のころは、同時にいくつもの考えが浮かんできてまとまらなくなるんですね(その意味で「統合失調症」とはいい名前をつけたものです)。行き止まりの盲腸みたいなもので、なんでも出てくるけれどその先がない。袋小路です。そんなときに、たとえ幻の声であっても、いっぺんに一つしか出てこないのは患者さんにとっては助かります。繰り返しだったら予想がついて、驚くこともなくなります。だから急速に自由連想から繰り返しになってゆくのでしょう。》
あるいは暴力も。
《まず暴力というのは、低レベルで一時的ですが、統一感を取り戻す方法になります。頭のなかが乱れてまとまらないときに何かからだを機能的に使うことをすると一種の統一感が生じます。(略)大声を出すのも、いっときには一つのことしかしゃへれませんから、同時にいくつもの考え頭のなかをかけめぐっているときには統合の方向、コントロールの方向に向かうのです。特に恥ずかしい考え、あられもない考えのときです。》