●今週末から五連休なのだということを、今日はじめて知った。連休中もずっと、午前中は部屋で制作して、午後から夜遅くまで喫茶店にいることだろう。切れ目もない、代わり映えもしない日々がつづく。淀んでいるのか充実しているのか、自分でもよく分からない。実際に、制作したり、本を読んだり、何かを書いたりしているその瞬間だけ充実していて、それ以外の時間はひたすら淀んでいるというのか。
●これはぼくだけのことなのだろうか、写真(特にモノクロ)のなかに看板や落書きなどの「文字」が写り込んでいると、その文字(言葉)が異様なまでに主張しているように見える。昨日、新宿ジュンク堂柴崎友香フェアに展示してあった山方伸の写真を観ていた時もそれを感じて、例えば、運河の土手(防波堤)のような場所と、運河わきの建物とが、遠近法を強調したような奥が深い構図で捉えられている写真があって、その構図の一番深いところに、看板だか落書きだかで「愛」という文字が書かれているのが写っているのだが、その文字(言葉)は、そこに写っている空間の遠近法のなかにも、そこにある物たちの様々なテクスチャーのせめぎ合いのなかにも、写真そのものの白から黒の階調の幅のなかにも存在せず、つまり一枚の写真を構成するフレーム内世界には存在せず、そこから切り離された次元にあり、いわばそこだけ「浮いて」いるように見えるのだ(写真のフレーム内にありながら、フレーム外にあるキャプションであるかのように、映画の字幕のように)。あるいは、狭い路地に空間を塞ぐようにトラックが停まっている写真があって、そのトラックの前面に「大阪」と書かれた看板が取り付けられているのが写っているのだが、その写真でも、路地の狭さ、そこにごちゃごちゃとした感じとそこにある物たちのひしめくテクスチャー、それらを圧するように置かれたトラックの物質感など、写真そのものから受け取れる印象とはまったく切り離された次元で、「大阪」という文字(言葉)が強く迫ってくるように感じられたのだ。
(写真の描写は記憶で書いているので不正確かもしれません。)
このことはたんに、言葉=文字というものは、物質的、物理的な関連の世界とは別の次元で成立するものなのだということを示しているだけのことなのかもしれない。文字そのものは、テクスチャーとしてみれば、壁に出来たシミやペンキの跡と同様のものとして、それ自体として独自の表情を持つが、それがいったん「文字」だと受け取られると、物の表情としての独自性よりも、記号としての同一性が強く前に出てきて、つまり、本のなかの活字として読まれる「愛」も、壁にペンキで殴り書きされたような「愛」も、その物質的スケール的差異よりも、「同じ文字=同じ意味」であることの方が強くなり、その途端に、現実上の三次元空間や、写真としての遠近法の内部から飛び出して、別の文字、別の言葉、別のテキストとの関連性がつくりだす言語的空間に配置されてしまう、と。
とはいえ、例えば、その写真に写っている場所に現実に立って、自分の目でその風景を見ていると想像してみると、看板や落書きの文字を、ことさらそれ自体として突出したものと感じることはないように思う。我々は、街にあふれている看板に書かれた文字のいちいちに反応したりはせず、自分の関心に応じて、ある特定の看板を文字として読み込むほかは、多くの看板やポスターの文字は、かなり適当にグラフィックなものとして(表情として)流して処理しているように思う(必ずしも強く文字=言葉としてあらわれるわけではない)。それはおそらく、普段の我々が、たんに三次元的な空間の内部にいるだけでなく、言葉や意味的な関連の内部にも同様に住んでいるからだと思われる。つまり、我々はその状況から常に有効な意味のある情報を取捨選択して「見て」いるので、そこには、三次元的な空間の次元も、物質的なテクスチャーの次元も、言語や意味的関連の次元も、様々な徴候の次元も、あるいは社会的、動物的な対人関係への配慮などの次元もあり、それら複数の文脈の絡まりのなかを、同時に、同等な関心をもって住み込んでおり、その場、その場でとるべき行動の指針となるのに相応しいと判断された文脈が、その都度呼び出され、チャンネルは切り替えられ、それによって何を「見る」のか判断するからだろうと思われる。
だが、写真のフレームのなかの世界は、とりあえずは空間的な遠近法と物質的なテクスチャーとモノクロのトーンとに還元されている。余計な配慮を発動させる必要はなく、雑音があらかじめ排除されている。つまりチャンネルが切り替わらない。あるいは、切り替わるチャンネルの数がきわめて限定されている。だからこそ我々の視線は写真の風景や物の表情を「じっくり」見ることが出来るのだし、時に過剰に見過ぎてしまう。あるいは見過ぎることを強いられてしまう。写真そのものの内部には、「見ることを止める(決算する)」ための契機が存在しないから。それは、我々が目で見ている世界と同じ世界ではあるが、少しだけズレている。そこには、我々の視線よりもずっと物質にちかい視線があり、そのような世界では「文字=言葉」は異物なのだ。
端的に言えば、写真の世界の内部には文字=言葉は存在しない。そこに言葉を存在させるのは、それを見る我々のまなざしであり、それを読む我々の頭のなかなのだ。しかし、文字=言葉が我々の頭のなかにあるわけではない。それは頭の外に、物質とは異なる次元で存在する。そうでなければ、文字や言葉が他人に通じることはないだろう。写真の、空間的物質的世界と、文字=言葉の、意味的関連の世界が、我々のまなざしを媒介として結びつくというか、我々のまなざしが、写真の世界に、そこにはあり得ない文字=言葉の次元を無理矢理に重ね合わせる。そのことによって、写真のなかの文字が、そこだけ異質なものとして浮いてしまうということなのではないだろうか。
これがカラー写真になると、モノクロほどには文字=言葉が「浮いた」感じにはならないように思われる。そこには、色彩という、文字=言葉とはまったく違った次元にあって、しかし同様に、物質的、三次元的な空間内部には位置づけられない不思議なものの作用が絡んでくるように思われる。
●今年の五月から六月の展覧会で観た山方伸の写真では、文字=言葉は周到にフレームから外されていたように記憶している。しかし、都市部の風景を撮るとなると、どうしても文字=言葉がフレームに入ってきてしまうということだろうと思った。別にそれを批判しているのではなくて、写真作品としてどうこうというのとはちょっと別のところで、風景のテクスチャーと文字=言葉との混ざらなさというか、乖離する感じがぼくには興味深かったのだった。