三鷹で編集者と打ち合わせ。前に書いた作品論がようやく掲載というところまでこぎつけた。しかし、ぼくはその作品が雑誌に掲載された時のバーションをもとにして作品論を書いたのだが、そのなかでぼくが分析して指摘した内容と同じことを、その小説が本になる時、作者が既に作中に書き加えているということが判明した。つまり、ぼくの分析が作者によって先回りされてしまったということなのだった。その部分を、連休明けくらいまでになんとかしないといけない、ということになった。
だが、地元に帰って、地元の喫茶店で何ヶ月か前に書いた自分の原稿を読み返してみて、それはそんなに大きな問題ではないのではないかと思われた。作者に先回りされた分、ぼくの書いたものの評論としての「発見」は目減りしたとはいうものの、ぼくの書いたことと作家が書き足したこととが矛盾しているわけではないので、かえってそれによって批評全体の論旨が補強されたとも言えるのではないか。作者が「それ」を書き足したことで、ぼくの分析の方向が正しかったことが証明されたとさえ言えるのではないか。「発見」が目減りした分、同じ部分の分析をさらにもう一歩踏み込んだものにすれば(つまり、「それを書いている《今》さえ、書き直しの時間を含めると複数に分岐してしまうのだ」と)、それでオーケーなのではないだろうか、と。とにかく、本になったバージョンを改めて読んでみなくてはいけないのだが。
それとは別に編集者と話していて、ぼくが、今、ある小説について書きたいと思っているという話をしたら、それは是非書いてください、私もその小説については、作家の新しい何かが開かれたと思っていました、という話になって、次の原稿の目処が立った。その小説については、どこにも発表のあてがなくても勝手に作品論を書いてしまおうと思っていたので、行き先が出来てよかった。
その作家論の直しと、もう一つ別の原稿の締め切りが、連休明けには待っている。もう一つの原稿はいわば「女優論」で、今まで映画や映画作家についてなら書いたことがあるけど、女優を中心として映画について書いたことはないので、どこから入っていいのか、入り口がなかなか見つからなくて苦労している。