●昨日、一昨日はデジカメをもって一日中外にいたのだが、今日はずっと喫茶店にこもって原稿を書く。絵画について書くのは、今のぼくにとってとても苦しい感じだ(「絵画を描くのは」ではない、念のため)。絵画について、「批評」みたいな形で書くのは、なんかどうしても嘘くさくって、今はちょっと無理みたいだ。だから、断章形式のエッセイみたいなものとして、なんとか書き始める。それも、過去の自分の書いた日記に大きく依存するような形で。それでもなかなか進まない。あまりに進まないので、締め切りを勘違いしているのではないかという不安妄想に襲われ、編集者に電話して確かめた。勘違いしてなくてよかった。
だいたいぼくは、批評なんて大それたことをやりたいわけではないし、批評がそんな御立派な行為だと思っているわけでもない。ぼくは、よい作品やよい仕事をしている作家について、これはこんなにすごいんだ、こんなに面白いんだ、ということを言いたいだけだ。というか、面白い作品や作家に出会うと、それについていろいろ考えたり、すごいとか面白いと言ったりせずにはいられない、というだけのことなのだ(あまりに退屈だったり下らなかったりしても、ついついそう言わずにはいられなくなってしまうということもあるけど、それはどうでもいいことだ)。それは、作品を尊敬とあこがれをもって見上げるということで、見上げるような作品でなければ、それについて分析したり、書いたりすることに意味なんかない(ここで「見上げる」というのは、ほとんど「あきれる」と同義だったりもするのだが)。それは、書くという行為を通じて、書かなければ触れられなかったであろう作品の深いところにまで触れたいという強い思いによってだけ支えられている。ぼくにとって重要なのは「そこ」だけで、それを外してしまったら、ぼくなんかが文章を書く意味はない。
ぼくには、分析によって作品を「斬る」みたいな意識はない。しかし分析-知というのは決して「ぼくのもの」ではなく、分析装置は作動すると(ぼくの欲望によってねじ曲げられることがなければ)自動的に進展してゆくものなので、そこでは「ぼくの思惑」は関係なくなってしまうのだが。つまり「ぼくの思惑」を超えるためにこそ、分析に意味があるわけだ。
貧乏なので原則として一人の時は外食しないのだが、あまりにも長時間喫茶店で居座っているので、コーヒーだけでは申し訳ないのと、いい加減腹も減ったので、ハムトースト(一番安いメニュー)を注文してしまった。頭の芯が凝るように疲労したので、帰りにワインを買って、帰って部屋で飲んでしまった。しかし、日記に「酒を飲んでしまった」と書くくらいには、酒の量が減ったということで(つまり、そう書いてない日はほとんど飲んでいない)、それは去年に比べれば大変な成長なのだった。たんに金が無いのだが。