2022/05/29

●今月は知らないうちにタイムリープしていたらしい。なぜか8日が二回ある…。

京急に乗って弘明寺へ。Goozenで、「井上実×白田直紀展 ときのげ--時間の外-- 」を観た。

●白田直紀の作品ははじめて観たのだが、テクスチャーが不思議で、どうやったらこんな風になるのか全然分からなかった。とても美しい、半透明のインクのような色彩で、そしてそれはとても細くて短いストロークの集積として画面に定着している。その細くて短い一本一本の線が、なんというのか、紙に対してカマボコみたいな感じで盛り上がっているように見える。だから、とても細かい一本一本のストロークが、それぞれ自律的に自分の存在を強く主張しているように見える。半透明の色彩がとても透明に響き合っていて美しいのだが、さらに、(とても細かいところで)一本一本の線における、インクの物質感の主張も強く出ている。逆から言えば、手数が多くてがちゃがちゃしているのだが、そのガチャガチャが、全体としてきれいな響きになっている。そしてインクがキラキラ光っているように見える。

(この感じは、写真や印刷物では再現できないと思う。)

魅了されて、しばらく画面から数センチくらいの至近距離で観ていた。

ピグメントインクのような本来さらっさとした色材を、なんらかの方法で粘性を高めて、それをとても細い筆を用いて紙にのせているのだろうか。いや、でも、紙をガリガリ引っ掻いているような感じがあるから、堅いペン先のようなものを用いているのだろうか。よく分からないのでギャラリーの人に聞いてみたら、文房具屋で普通に売っている色のついたボールペンで描いているのだというので驚いた。ボールペンのインクがこんなに美しいのか、ということと、ボールペンのインクが、こんなにねとっと盛り上がる感じで紙に定着するのか、ということに驚くのだが、おそらく、ペン先にかける力の具合だとか、ペン先を動かす速度とかに独自のものがあるのではないか。

●井上実の作品を観ていつも感じるのは、キャンバスの地の白の重要性だ。とはいっても、油絵では通常は絵の具で層構造をつくるのに対し、井上実の作品の層構造の希薄さ(キャンバス地も含めてもせいぜい三、四層で、タッチとタッチの間に空隙として露出する地の白が画面全体に散らばっている)は特異だと言えるが、水彩画や紙に鉛筆やペンでハッチングを用いてデッサンすることなどを考えれば、地の白が重要だというのは得に変わったことではない。ハッチングを重ねてデッサンする時、線と線との間からチラチラ見える(空隙としての)紙の白を意識しないわけにはいかない。しかし、ハッチングを用いて描かれる、地の白を生かした軽やか目のデッサンにおける地の白の意味と、井上実の作品における地の白に意味は異なっているように思われる。

ハッチングによって描かれる地の白を生かしたデッサンにおいて、地の白は空間を孕んでいる。この場合、空間とは通常の三次元空間のことだ。つまり、地の白もまた、三次元空間の秩序の内にある(ように見えるよう調整される)。しかし、井上実の作品における地の白は、三次元空間の秩序に属していないように見える。それは、空間の中に空いた非空間的な穴であるようだ。空間の秩序の内にあるのではなく、空間の背後にあって、空間を支えている非空間としての白。そんなものは普通は見えるはずがないのだが、それが露呈されてしまっているというような感じ。

(輪郭線が、三次元空間の秩序のなかにないのと同様に、井上実の作品の地の白もまた、空間の秩序の内にはないように見える。)

たとえば、イメージの背後にあって、イメージを支える非イメージというのは、イメージが「そこ」に描かれる支持体(基底材)であるキャンバスの表面のことだ。我々は、「そこ」にキャンバスがあることを知っているし、見えてもいるが、それはイメージの秩序の外にある。描かれたイメージの諸関係のなかにキャンバスの表面は含まれない。つまり、キャンバスの表面が実際に露呈していたとしても、イメージ空間のイリュージョンの秩序の内にある限り「キャンバスの表面」ではなく、イリュージョン空間を成り立たせている要素の一つである何かだ(色彩や調子やタッチやマチエールなどと同等の何かで、それは絵の具そのものやキャンバスそのものではない)。

だが、かといって、井上実の作品が、イメージの秩序のなかに、イメージの亀裂として基底材そのものを露呈させようとしていると言いたいのではない。そんな単純なことではない。イリュージョンと、それを支える物質的基盤という話ではなく、空間と、それを背後から支える非(超?)空間という話なのだ。虚と実という問題では無く、図と地というゲシュタルトの問題なのだと思われる。

星形が描かれたキャンバスがある時、通常、星の形が図で、それを成り立たせている四角いキャンバスのひろがりが地だが、キャンバスを一枚の絵として見る時、その絵が図だとすれば、それがかかっている壁、あるいは美術館の空間が地となる。同様に、通常は地である「空間そのもの」を図として成り立たせているような、それよりさらに背後にある何か。それがあるからこそ、空間を空間として把握出来る、一つ奥に後退した場。そこから空間が湧出してくるような原-空間と言った方がいいのか。あたかもそのようなものが現われているかのようなイリュージョンとして(作品=イリュージョンの話で、モノそのものという話ではない)、井上実の絵の地の白があるように見える。