●『グリーンバーグ批評選集』の第3部は、マネ、セザンヌ、ピカソ、マティスといった、モダニズムの巨匠たちについてのテキストが収録されている。だが、ここではこれらの巨匠たちはあくまで、抽象表現主義との関係によって記述されている(つまり抽象表現主義を正当化するために記述されている)ように見える。例えば、1930年以降のピカソが、ここまで酷く批判されなければならないのは、(グリーンバーグが捉えた)抽象表現主義が、いかにキュビズムに多くを負い、また、それを仮想敵とすることで活気づけられたか、ということを示している。確かに、抽象表現主義的な形式性からみれば、30年代以降のピカソの仕事は弛緩しているとしか見えないだろうし、抽象表現主義の画家(特にポロック)が、ピカソが放棄したキュビズムの可能性(のある一つの方向性)を引き継ぎ、それを徹底して追求した後、突き抜けたという事実はあるだろう。だが、グリーンバーグは、30年代以降のピカソの弛緩(作品の「質」の低下)が、どのような「必然性」によってなされたのか、ピカソがそれによって何を得た(少なくとも「得ようとした」か)については全く無関心である。(いや、無関心であるはずはないのだが、そこには触れない。)ビカソによる転換=弛緩(と質的低下)と同様の事柄が、ピカソの可能性を引き継いで徹底させたポロックにも、同様に訪れた(反復された)という事実を考え合わせてみれば、ここに何か重要な「落とし穴」があることは明確ではないだろうか。乱暴に言えば、グリーンバーグ的モダニズムには、「イメージ」というものの恐ろしい力、人間の「目」が、どうしても(対象の)イメージや三次元的な空間を追ってしまう(作り出そうとしてしまう、あるいは必要としてしまう)という(いわば生物学的、あるいは精神分析的とも言える)「必然性」を甘く見過ぎていたと言えるのではないか。(この「必然性」について考えない限り、アメリカ型フォーマリスム絵画が、何故、セザンヌやマティスほどの「質」を獲得出来なかったのか、何故、先細り的な展開になってしまったのか、について考えることは出来ないと思う。これは、現在の画家としてのぼくにとっても、切実な問題なのだ。)
あるいは、グリーンバーグは、セザンヌの、プレ・キュビズム、プレ・抽象表現主義的な側面を強調して、セザンヌを、抽象表現主義を正当化するような、絵画というメディウムの必然的な発展(歴史)のなかに配置しようとしている。
古大家たちは常に、表面とイリュージョンとの間の、つまりミディアムの物理的な事実と、形象としての内容との間の緊張に留意していた--しかし、彼らは技巧によって技巧を隠蔽する必要があったので、この緊張をはっきりと強調することはまずなかった。セザンヌは、印象主義的方法から--と同時にその方法によって、--伝統を救出したいと強く望むことで、我しらずとも伝統的なやり方に比べてはるかにずっと絵の表面を物理的実体として扱ったのである。(P194)
実際の問題は、自然に従ってプッサンをいかにやり直すかではなく--プッサンがなしたよりも注意深く明確に--奥行きのなかにあるイリュージョンのあらゆる部分を、いっそう優れた絵の権能を授けられている表面のパターンにいかに関係づけるか、であったようだ。三次元のイリュージョンを装飾的な表面の効果に強固に結びつけること、彫塑性と装飾性の統合--これが、本人がそう言おうが言うまいが、セザンヌの真の目的だった。(P196)
いくつもの切子面状の面は、自らが生み出す図像(イメージ)と表面との間で前後に躍動するだろうが、しかしなおもそれらは図像と表面との両方とともに在る。明確だが簡潔にはたき付けられた絵の具の四角い筆致は、あるリズムをもって振動し拡張する。それが平面的なパターンはもちろん、イリュージョンをも受け入れるのである。(P197)
この点は強調しておきたいのだが、このセザンヌに関するテキストは非常に優れたものであり、ここでの分析は極めて鋭く正確であると思う。だから、グリーンバーグは決して、人を丸め込むために(抽象表現主義を擁護するためにだけ)「強弁」しているわけではない。ここにセザンヌの作品の「核心」のひとつがあることは確かだろう。ただ、セザンヌの作品をこのような側面だけに還元し、それを「セザンヌの真の目的だった」としてしまうことは、セザンヌを「プレ・キュビズム、プレ・抽象表現主義」という位置に閉じ込めてしまうことに繋がりかねない。だからこれは、グリーンバーグへの批判と言うよりは、今日、グリーンバーグを「読む」時に、常に留意しなければいけない点だ、ということなのだが。