『グリーンバーグ批評選集』

●『グリーンバーグ批評選集』を買って、パラパラと読んだ。全てをきちんと読んだわけではないが、思ったのは、やはりグリーンバーグは理論家でもフォーマリストでもなく、あくまで「目利き」としての批評家なのだということで、だから第一部にまとめられている(高名な)理論的・原理的なテキストよりも、第二部、第三部の、具体的な作家や作品について書いているものの方がずっと面白い。そこでは、理論的、原理的な考察が行われていながらも常に、それと作品の「質」とは別であるという保留が書き込まれ、あるいはその「質」の判断とも矛盾するかも知れない「趣味」があきらかに顔を覗かせていて、ある作品を記述する時、そのどれかによって価値を判定してしまうことなく、それらの揺れのなかでやわらかく作品が観られているという眼差しが、常に感じられるのだ。特に第二部は、グリーンバーグ自身がそのただなかにいて、その芽生えから隆盛期、そして衰退期と通して「その場」とかかわっていた抽象表現主義について書かれたものが集められていて、それは現在の目から見ると、作家や作品の評価、その先行きの予測などで、あきらかに間違っていると思われる点も多々ある(例えば、オリツキーをそれほど高く評価するのはどうかと思うし、ニューマン、ロスコ、スティルらの作品の可能性を発展させ得る若手の作家として、サム・フランシスのようなつまらない作家が挙げられているのは信じ難い、そして何より事実として、抽象表現主義以降のモダニズム的な美術は、グリーンバーグが望み、予想したような方向には行かなかった)にもかかわらず、グリーンバーグの「目利き」としての鋭さと柔らかさが、現在進行しつつあるものの生々しさのなかで息づいているのが感じられる。
(余談だか、この本は収録するテキストを絞り込み、シンプルで小さな本にすることで、美術に特に強い興味を持つ人や専門家だけでなく、一般の人や学生なども手に取りやすいような、この手の本としては比較的安い値段で発売されている。これは大変に素晴らしいことだと思うが、その一方で、価格を抑えるためなのか図版が全くない。これは、グリーンバーグがあくまで個々の作家や作品について具体的に記述する批評家であり、さらに、第二部では一般にはあまり知られていない抽象表現主義のマイナーな作家たちの名前も数多く登場することを考えれば、収録されたテキストを「読む」ことを著しく困難にしてしまっているのではないかとも思う。ポロックやロスコ、ニューマンという名前ならば、知らなくても調べれば割合容易に分かると思うが、ホフマン、マザウェル、フランケンサーラー、ルイス、ゴットリープ、トビーという名前を見て、その大まかな作風でさえ思い浮かべられる人は少ないのではないか。もしかすると、非常に重要な画家であるスティルでさえ、多くの人は聞いた事すらない名前かも知れないのだ。これらの画家たちの仕事は、グリーンバーグの批評と不可分であるはずだし、だから、図版を示すことはその批評を理解するために不可欠のように思われる。)
グリーンバーグは、しばしば、芸術をマンネリや自己模倣という堕落から救い、その「質」を維持させるものは「新鮮さ」だと書く。そして、抽象表現主義の持つ「新鮮さ」は、その直前になされた「キュビズム」という偉大な達成が作り出す強力な重力から逃れ、それを越えようとする力のなかに見いだされる。例えばポロックは、キュビストたち以上にキュビズムの可能性(明暗対比や切子面状の細かい切片)を徹底させることで、それを突き抜けて全く別のもの(明暗の対比がボリュームを形成せず、細かい振幅が霧のようにひろがる空間)に到達する。あるいはニューマンやロスコやスティルは、キュビズムのもつ明暗対比、幾何学性、彫塑的側面、物質性、内側に向かってぎっしりと詰まっている感じ、というような要素とは全く異なる要素、(マティスから得た)明暗の差のない純粋な色相の対比、薄塗りのタッチ(スティルは厚塗りだけど)、空気が通わされたような、息づき、開かれた空間(場)、などによって絵を組み立てることで、その重力から脱した。それに対し、デ・クーニングやゴーキーは、ユニークで質の高い作品をつくったが、キュビズムや西洋絵画的な趣味の圏内に留まっている、という点で、前述の画家たちよりもマイナーな存在とされる。
つまりそれはキュビズム(および西洋絵画的な「趣味」)に支配された「目」に対する新鮮さであって、キュビズムによる磁力が強く作用している限りにおいての「新鮮さ」である。だが、抽象表現主義の(キュビズムに対する)「新鮮さ」という価値が消えた現在の「目」から見ると、抽象表現主義の最も偉大な達成であると思われるニューマンやスティルの作品よりも、(そしてもしかするとポロックの作品よりも)それ以前のキュビズムや、プレ・キュビズムであるセザンヌの作品の方がずっと「新鮮」に観えてしまうという事実がある。それは、(グリーンバーグの主張とは違って)抽象表現主義の「新鮮さ」は、キュビズムセザンヌと同等の「質」をもつことは結局は出来なかったということを意味しているだろう。勿論これは、抽象表現主義から50年以上たった今だから言える話であって、このことによって同時代そのだだなかにいたグリーンバーグを批判するのは「後だしジャンケン」でしかない。しかしこれは動かし様のない事実であって、評価するにしても批判するにしても、この事実を外してグリーンバーグを読むことは出来ないと思う。
(余談。グリーンバーグは、デ・クーニングやゴーキーを、確かにポロックやニューマンよりもマイナーな存在とみなしてはいるが、じつは「趣味」としてはすごく「好き」なのに違いないと思う。それは例えば、次のような部分から伺える。《おそらくデ・クーニングにしてもゴーキーにしても、完成し手直しをした油彩画は、その場限りのくつろいだスケッチやドローイングや、また紙の上にさっと描いた油彩画が持つ高みにはこれまでのところ達していない。(P119)》思わず、このようなことを書き添えてしまわずには居られないということは、グリーンバーグはデ・クーニングやゴーキーの「くつろいだデッサンやドローイング」がとても好きなのだろう。事実、彼らの「くつろいだデッサンやドローイング」は素晴らしいのだ。そして彼らの「くつろいだデッサン」のもつ生き生きとした感じは、ポロックやニューマンの作品からはまったく感じられない。だからこそグリーンバーグは、その貴重さを示すために、この文を書き添えるのだ。グリーンバーグにとって「理論的」には、偉大な絵画とは「構想力」の絵画であり、それが例えばニューマンなのだが、「くつろいだデッサン」はあくまで「手の絵画」であり、だからそれよりも劣るということになる。にもかかわらず、それに惹かれ、それをちゃんと「観ている」目が、グリーンバーグにはあるのだ。だからこそその「目」が信じられるのだと思う。)