08/03/02

●『フラワー・オブ・ライフ』(よしながふみ)の一巻を読んで思うことは、よしながふみは、きわめて「男性的」な作家であるということだ。ここで、男性的というのは、マッチョだとか、男の子っぽいということとは、とても遠いことだ。例えば、男の子っぽいということは、徒党を組みたがり、粗野で、繊細さと他者への配慮を欠き、思い込みが激しく自己中心的で、それでもなお、自分のことを誰かがいつも気にしていてくれるということを前提にして生きることを、自分が「男の子」であることによって「許されている」と無自覚に信じ込んでいられるということだ。この、男の子であることの無自覚なずうずうしさは、それ自体ときに美徳であり、眩しさであり、かわいげであるかのように、多くの人によって愛されている。マッチョであるということは、男の子が「無自覚」であることについて、自覚的に、確信犯的に、そこに居直っているということであろう。
そして、「男性的」であるということは、男の子的な無自覚さ(かわいげ)が決して許されない環境にいる者が強いられる、ある覚醒と理性の場である。だから、むしろ、男性よりは女性の方が、より「男性的」であることが多いとさえ言えるのかもしれない。よしながふみは、男の子であることに徹底して疎外されていることによって、常に男性的であることが強いられている作家であるように思われる。その作品は、常に繊細で、理知的で、頭の良さを感じさせるバランス感覚に優れていて、政治的に正しい。『フラワー・オブ・ライフ』の登場人物中で、波乱を起動させる存在であり、最も「男の子っぽい」人物である主役の花園春太郎でさえ、男の子的粗野(=無邪気)さからはほど遠い、理知的な存在である。(彼は白血病であったために、男の子的無邪気さが許されなかった。)それこそが、この作品の最もうつくしい部分であるのと同時に、この作品の限界であるようにも思えてしまう。それはきわめて理性的でありつつも、常に理性の範囲内に留まり、そこを踏み越える力を感じさせない。(例えば同じ作家の『彼は花園で夢を見る』は完璧なまでにうつくしい作品だけど、その完璧さは何かを干上がらせることによって成り立っているかのようだ。)
例えば大島弓子は、よしながふみが男性的であるということと同じ意味で、きわめて男性的な作家だと思う。大島弓子の登場人物はいつも、世界や他者との関係において、理知的で戦略的である(あたかも「天然-無垢」であるかのようにみえる時でさえも、それは世間-他者に対する主体の戦略である)。それは、男の子的、マッチョ的な粗野や無自覚とは遠くはなれた聡明さや自覚性とともにある。しかしその理知的な戦略は、自身の欲動のはげしい明滅や、他者が投げかけてくる欲望や悪意の予想のつかなさによって、いつも破られ、失敗する運命にある。(そもそも、原初的な「失敗」こそが、登場人物に自覚-戦略を強いるのだが。)大島弓子の(特に70年代の)作品の魅力は、他者-世間に対してきわめて自覚的、理知的であるにも関わらず、それが自身の欲動や、他者の欲望、悪意によって破産させられてしまうという(常にその危険にさらされているという)、激しいダイナミズムのなかにあるということだ。(樫村晴香が、大島弓子が「政治的」な作家であると言うのは、そのような意味であろう。)だが、よしながふみの作品は、あくまで理性の範囲内に留まり、そのようなダイナミズムに欠ける。そこでは常に理性が制御し、波乱でさえ理性のよって起こされ、理性によって抑制される。(政治-摩擦は消失し、高度な対人関係における配慮-外交が前面化する。)登場人物は全て、自身の位置を理解し、自分自身に配慮し、そして他者のありように配慮する(たとえそれが時に充分ではないとしても)。花園が三国を「かわいい」と思う時、そのかわいさ(欲望)は、理性をくすぐりはしても、破壊はさせない。ここでは他者の欲望や悪意もまた、理性による制御の範囲内にある。
欲動において、欲望において、快楽において、あるいはセクシュアリティにおいて、主体性などあり得ない。誰かが誰かに誘惑された時、その主体性は、誘惑され欲望し快楽を得る者の側にあるのか、それとも、誘惑し、欲望を誘発し、関係を操作する側にあるのか。(だがそこに、権力関係、強者と弱者は存在するかもしれない。しかしそれは、容易に逆転するし、常に相対的だ。)欲望とは誰に対しても等しく常に暴力である。だからそれに対しては嘘-偽装による防衛-戦略が必要である。これがおそらく大島弓子の世界であると思われる。対して、よしながふみにおいては、欲望や快楽よりも「主体」が重んじられる。主体を破壊するような強い欲望は周到に排除され、主体は自らの主体性を、そして自分自身の「位置」を、運命として受け入れる。(『大奥』などはきわめて後期フーコー的な作品なのかもしれない。)よしながふみにおいては、自分自身は絶対的に守られなければならず、よって、他者の主体もまた、同じように守られなければならない。そこは踏み越えてはならない。そこでは主体への配慮こそが最も重い価値を持つ。
岩館真理子の『雲の名前』では、主人公の存在の基盤が徹底して否定される。主人公が階段の上の屋敷を訪れるのは、不確かな自身のアイデンティティの確認のためであるが、しかし、そこでの一連の出来事は、そこへと至る以前よりも、より徹底して、自身の根拠を失わせることになる。なにしろそこでは、主人公による「私は誰(私の存在する位置は?)」という問いかけに対し、「あなたなどはじめから存在していない」という答えがかえってくるのだから。主人公はその存在を根底から否定される。主人公はそこにいるにもかかわらず存在しない。しかしこの作品が素晴らしいのは、この答えによって主人公が、自身の存在の(象徴的な)位置などとは無関係の、生の場所を発見することだ。原初的な他者(母)から突きつけられる、存在そのものの否定が、主人公の自由の場所を開くのだ。自身の象徴的な位置に捕われた、階段の上の家の人たちの演じる(欲望が複雑に絡み合う)安っぽいメロドラマ(ここでの人間関係に、よしながふみによっては決して描きだされない、べとついた気味の悪さがあるのは、彼や彼女には主体がなく位置、位置によって強いられる欲望だけがあるからだろう)のなかを通り抜けることを通して、主人公は、自分自身の主体や位置や根拠を失い、そして、生を得る。(「ぼくは存在したの?」という問いに対し、「確かに存在した」という答えを得るとともに死んでしまう『ニンゲン合格』の主人公とは対極にある。)階段をてっぺんまで昇ったら、実はその階段そのものが存在しなかったかのような清々しさ。