●『ザ・マスター』(ポール・トーマス・アンダーソン)をブルーレイで。『インヒアレント・ヴァイス』がとてもよかったので観た。最初から最後まで、どの場面を観ても完璧に素晴らしく、格好良くて、PTAの驚くべき演出力、表現力に感嘆しているうちに映画は終わるのだが、しかし、終わってから翻って考えるとひっかかりというものがあまりなかったなあと感じ、この映画全体として何をやろうとしていたのかはあまりよく分からないという、不思議な映画だった。
「あらすじ」として考えれば、疑似的な父子関係を描こうとしたと考えるのが妥当なのだけど、でも実際には、この映画のホアキン・フェニックスフィリップ・シーモア・ホフマンの関係はまったく父と息子という感じではない。むしろ、前世からの因縁で結ばれている愛し合う二人(あるいは魂の朋輩)という感じこそがぴったりくる。この二人の間には、他者を寄せ付けない二人だけの何かがある。フィリップ・シーモア・ホフマンは、出会った瞬間からもうホアキン・フェニックスの存在を全肯定していて、この感じは宗教者の寛容ということでは説明がつかない。「ザ・コーズ」という教団に批判的な者に対するホアキン・フェニックスの攻撃的な態度も、フィリップ・シーモア・ホフマンの存在にケチをつける奴を感情として許せないという感じで、彼は別に強く信仰をもっているわけではない。
この映画に出でくる教団「ザ・コーズ」はサイエントロジーをモデルとしていると言われるけど、作品の関心は教団そのものにあるのではなく、「教団の教祖」という特別であるべき存在と、どこの馬の骨とも知れない、戦争帰りでPTSDを抱えたチンピラのような問題児である一信者との間で、やくざ映画の義兄弟ともいえるような、深くそして対等な関係(ほとんど純愛のような関係)が生じてしまう様が描かれていると考えるのが自然だと思う。つまり身分違いの恋であり、ホアキン・フェニックスの存在は教団の秩序にとって大きな脅威になる。教祖の妻(実質的には彼女が教祖をコントロールし、教団を大きくする野心を強く持っているようだ)は、二人の関係が特別なものであり、それが教団の維持にとって極めて危険であることを察知し、だからこそ、ホアキン・フェニックスを排除しようとする。
とはいえこの映画では、二人の関係と、教団を維持しようとする者たちの軋轢や対立が中心にあるというわけではない。それは最後に顕在化するが、途中では気配のようにして背景にあるだけだ。映画は、ホアキン・フェニックスの詳細な人物像から語り出され、その後にフィリップ・シーモア・ホフマンとの運命的出会いが示され、二人の関係の「特別な深さ」が語られ、しかし同時に、ホアキン・フェニックスにとってトラウマ的な、過去の女性との関係が語られる。ホアキン・フェニックスは、一方で「女性」との関係に強く引っ張られており、他方にフィリップ・シーモア・ホフマンとの強い絆があり、その間で揺らいでいる。まるで、一方に「この現実」「この生」「この肉体」に拘束されていることによって生じる「女性との関係」があり、他方に、前世から来世へと繋がる、「この肉体」を越えた「魂の結びつき」としてフィリップ・シーモア・ホフマンとの関係がある、という対立が描かれているかのようなのだ。また、フィリップ・シーモア・ホフマンの方も、現世的である「妻との関係」によって、「魂の関係」をもつホアキン・フェニックスとの別れを選択せざるを得なくなる、という風に読むことも出来る物語になっている。
だからこの映画は一見、映画内の教団「ザ・コーズ」の教義――「この肉体」に拘束される生と、それを超越し、輪廻転生を繰り返して十億年も持続する「魂」の生があり、この生のなかでも「魂の生」を発見し、それを生きなければならない――を、物語そのものとして肯定しているようにも見える。ホアキン・フェニックスフィリップ・シーモア・ホフマンの間には、十億年レベルでの魂の繋がりがある、ようにも見える。その意味で、主題とモチーフは関係しているように見える。ぼくはこの映画を観ながら、『バンジージャンプする』という映画――交通事故で死んだ主人公(男性)の恋人(女性)が、自分の教え子の男子高校生に生まれ変わっていることを発見し、しかし二人の関係は周囲に理解されないから、心中して来世で幸せになろうとする物語――を思い出していた。
だがそうとだけ簡単に言えないのは、この映画において「輪廻」や「魂の関係」を打ち砕く女性の力もまた、極めて力強く描かれているからだ。「ザ・コーズ」の教義では、「この生」「この肉体」を超越することが目指されるが、この映画そのものは必ずしもそうではない。ホアキン・フェニックスは、フィリップ・シーモア・ホフマンと出会った後も、地元に残してきた女性(ドリス)のことを忘れられないし、目の前にいる女性に対する欲望を抑えることができない。フィリップ・シーモア・ホフマンも、妻との関係と教団の維持を取り、魂の朋輩であるはずのホアキン・フェニックスとの関係を絶つことを選択する。そして映画は、一人になったホアキン・フェニックスが新しくひっかけた女性とセックスしている場面で終る。つまり、「この生」「この肉体」における問題は常にあり、それを超越的な「魂の問題」によって解消することはできない、という風になってもいる。
とはいえ、この映画は、輪廻を貫くプラトニックな「魂の関係」を否定し、批判しているとも言えない。この映画は全体として、悲恋の物語のような痛切な調子(「魂の関係」が破れてしまうことの痛切さ)をもっているように思われる。
力強く圧倒的な演出力と、非常に微妙でどっちつかずであることで難解になってしまう語り方とがアンバランスな感じで、PTAって面白い作家だなあと思った。