●『魂と体、脳』(西川アサキ)、第六章。六章を読むのに四日くらいかかってしまった。それは、内容がハードだということもあるが、あまりに恐ろしくて先に進むことに対しての無意識の抵抗が働いているからではないかと思う。昨年末にこの本を読み始めた時に風邪をひいてしまったのも、体が「先へ読み進むこと」へ抵抗していたのではないか。一ページ読み進むたびに、目の前にある壁がガラガラと崩れ落ちてゆくような感じ。これは、少なくともぼくにとっては、西川アサキ以前と以後とでは世界が全然ちがってみえる、というくらいに重要な本だ。世界の描像として、「こういう方向性」には割となじみがあるし、「こんなようなこと」はぼくもずっと考えてきたのだけど、それで「こんなところまで行ける」ということがすごいのだ。こんな感触は、九六、七年ころに樫村晴香をはじめて読んだ時以来のことだと思う。
●この本は徹底して二者関係(二人称)において起こることが問題とされていて(そこにこそ問題の根本があるとされていて)、第三項(法とか象徴界とか第三者の審級みたいなもの、グローバルなもの)の存在を前提とはしていない。「脳(という実在)からいかにして(錯覚としての)クオリアがつくりだされるのか」という問題設定ではなく、「クオリア(という実在)からいかにして(錯覚としての)脳がつくりだされるか」を問題とするのだという冒頭で示されるゲームの設定(モナドジー)は、三人称に対する一人称の徹底ではなく、二人称からどのように三人称(身体)と一人称(魂)の分離(創発)が起きるのかという形へと発展する(この時、三人称は客観性ではなく共可能性となる)。強いて言えば「実体的紐帯」という概念が第三項に当たるのだと思うけど、それが二者の関係の力学のなかに(二者関係の力学のみの中から生じるものとして)解体されてゆく。すべて同等であるはずのモナドたちの間から「中枢」や「貨幣」(他と同等であると同時に他を支配するもの)が創発されてゆくプロセス(をシミュレーションするためのプログラム)の根底にある「デッドロック・ペア」という発想から、魂と身体の分離(なぜ「身体」が必要となるのか)と、その間の識別不可能な領域の存在を(「現働化」と「実在化」の区別を通して)説明する時に用いられる「二つの中枢間の関係」まで、すべてが二者の関係とそのネットワークのみを問題とすることによって描き出されている。さらに、内省的な自己対話でさえ、「要求役である私」が「提供役である私」を直接「読み取る」ことが出来ないとして、二者関係として描かれる。
基本モデルから閉鎖モデルへの移行や、観測者の観測における「中枢を特定すること」の不確実性の導入なども、第三項としての「研究者の視点(客観性)」を排除するための操作だった(そして、そのような客観性の排除という操作こそが、結果としてモデルを一気にリアルなものとするのだ)。第三項のない二者の対話はつねに近似値を求める解釈のすり合わせとなるから、原理的に結論のない「終わりなき対話」となり、納得の閾値によって「しつこく続いたり不意に終わったりする」。この不確実性によって「空気」がかわり、「気づき」が可能になる。
とにかく、二者の関係の徹底によって「ここまで行けるんだ」、ということがすごい。それでもなお第三項があり得るとすれば、この世界の全ての根本原因としての「神」くらいのものだろう。実際、この本を読んでいて、「世界をこのようなものとして存在させた」原因としての「神の存在」を意識しないでいることは難しい。
●この本を読んでいると、何故か無性に高橋洋の映画が観たくなってくる。この四日くらいで改めて『ソドムの市』、『発狂する唇』、『血を吸う宇宙』(後の二本は脚本のみ高橋洋で、監督は佐々木浩久)のDVDを観た。高橋洋の作品は、繰り返し観れば観るほど、さまざまな細部が「これ以外ではありえない」という必然性によって配置されているのだと感じるようになる。『発狂する唇』は、はじめて観た時に強い拒否反応が起きた(この映画のことが大嫌いだった)のだが、それはおそらく、この映画が「恐怖」というもののもつ根底的な何かに届いているからだと思う。