2022/11/16

●ある人と話していて、「ちゃんと分かってもらおう思って、作品について少し丁寧に説明したら、その人が別の場所で、「感想」として、自分が話したこととほぼ同じことを書いていた、ということがままある」ということを言っていて、ああ、確かにと思った。「作者」にとっては、それはとても落ち込む出来事だ。

(かつては「説明しないことがかっこいい」という時代があって、でも、それってちょっと尊大すぎないかという反省があり、できるだけ説明はした方がいいという空気になったと思うのだが、説明するのも良し悪しなのだなあ、と。)

作者の言葉を「正解」だと思ってしまう問題は、けっこう深刻なことだと思う。ぼくの個人的な禁じ手として、批評を書く時に「作者のインタビュー」を引用すること、がある(つまりぼくは「引用しない」)。たとえ引用することがあったとしても、作者の言葉を作品と同等な「読み解くべきもの」として引用する。それは、決して答え合わせや論拠として「作者の言葉」を使わないということだ(たとえ作者が、逆のことを言っていることを知っているとしても、自分の読解と論旨の方を信じる、作者が作品のすべてを知っているわけではない)。これは批評を書く者としての最低限の矜持だと思っているのだが、素朴に作者の言葉を論拠とする人はけっこう多い(それを見るととてもモヤモヤする、そもそも「作者の言葉」が論拠になるから批評は何も生産せずに「答え合わせ」だけをしていることになる)。

正解は、作品の中から見つけるべきものであって、作者の中から見つけるべきものではない。あるいは、「作者」というのは生身の人間のことではなく、作品を生み出しつつある時にのみ出現する何ものかで、事後的には、複数の作品の連続性や不連続性の中から仮構的に浮かび上がらせるしかないものだ。

(故に「作者」こそが常にフィクションであるしかない。)

ここには、「理解すること」と「面白がること」との順番が逆になってしまっていということもあるのではないか。多くの人が、理解できなければ面白がれないと思ってしまっているのではないか。でも本来は、「面白い」が先にあって、その面白さに導かれた探究があり、その先に何がしかの「理解する」がやってくるのだと思う。「面白い」というのは、よくわからないけどここにはきっと何かがあるに違いないという予感のことだ。そしてその未知の予感に導かれた探究は、すでに存在する答えを求める「答え合わせ」ではなく、「答えの創造」でなければならないと思う。いや、違うか。「~でなければならない」という言い方は全く良くない。そうではなく「未知の予感」から「答えの創造」の「過程」こそが「面白い」ということの内実なのだと思う。

だから「答え合わせ」では面白くないのだ。ただ、面白くはないとしても、「答え合わせ」は「人とのつながり(共通理解)」と「安心(安定)」を与えてはくれる。そして、多くの人にとっては「面白さ」などよりもずっと、「人とのつながり」と「安心」の方が重要なのだということは、ぼくにもわからないではない(例えば「プレバト」において典型的なのだが、そこで重要なのは「作品」ではなく「場」の盛り上がりとその維持だろう、そしてそれが「社会」というものなのだ、残念ながら…)。だから強く否定はできずに、弱腰になってしまうのだが。

(まったく逆の態度として、倫理や正義を根拠として作者の「間違い」を正すという方向もある。作品が社会的生産物である以上、このような言説には意味があり、重要でもある。しかしこれもまた、「絶対」の立場が(絶対じゃないな、「根拠が」か)「作者」から「正義」に移行しただけではたんなる「答え合わせ」にしかならず、それが「答えの創造(倫理や正義にかんする新たな提案)」にまで至っているかどうかで評価されるだろう。)