●blanClassで、「えをかくこと♯7〈私が描きました〉」。八人の画家がそれぞれ自分の作品を一点ずつ持ち寄って、くじで作品と作家を入れ替え、他人の作品を自分がつくったものとしてその技法やコンセプトを説明し、それを受けた観客からの質問にも答える、というイベント。
http://ca-mp.blogspot.jp/2014/11/ewkkkt7.html
出演者にとってはかなりハードなイベントだと思うけど、これはとても面白い試みで、例えば美術大学とかでも、講評会の何度かに一度くらいは、この方式でやるといいのではないかと思った。
これはまず、(1)あたかも自分で描いたかのように他人の作品について語るその人の、作品についての理解力や解析力が示される。そしてそれは結果として、(2)そこで解説される作品のけっこう突っ込んだ批評になる。
そしてそこに観客からの質問が重なることで、(3)語る人が、当初想定していなかったところまで作品の解釈や解析を深めることが強いられる。そして同時に、(4)観客の質問、および語る人の答えによって、語られる作品への批評もさらに突っ込んだものとなる。
まず、その作品がどのようにしてつくられたか、そして、なぜそのようにつくったのかを、語る人が解析・仮構する。ここでは、出来上がった状態に対する判断とはちょっと違った、作品の読み方が必要とされる。観客は、そこで作者として語っているのが作者ではないことを知りつつ、偽の作者によって解析・仮構された偽の作品解説を聞く。だから、観客から語る人への質問は、作品への質問(批評)であると同時に、語る人の解釈に対する質問(批評)でもあるものになる。そして偽の作者は、観客に向けてだけでなく、その場にいる本物の作者にも向けて、自らの解析・仮構を語ることになる。ここにはおそらく、実作者同士のとても微妙で複雑なニュアンスをもつ駆け引きが生じているだろう。
「場」としては、何重にも折り重ねられた複雑な虚構性が生じている。そのことが、作品と作者とが直結している場とは異なった、とても不思議な「作品について言葉を交わす場」を成立させていたように思う。この場のもつ多重な虚構性それ自体が面白いと言えるのだけど、それだけでなく、その多重な虚構性によって、通常の(ストレートな?)「作者」と「作者でない人」とが「作品」について話をするという場とは別の形での、作品に対する深い突っ込み(あるいは、語り=言葉のあり様)が可能になっていたように思われた。
たとえば、観客による質問は、語る人に向けられているものでもあり(あるいは、なく)、本物の作者に向けられたものでもあり(あるいは、なく)、今日、この場で成立している言説空間そのものへ向けられてものでもある(あるいは、ない)、という風に、宙づり的な指向性をもつものとなっていて、そのような形であることによってはじめて可能であるような、作品についての言葉のやり取りが生まれていたと思った。ある種の遊戯性、間接性によって作者と作品との関係が括弧でくくられることによって、作品と言説との関係性が、とても柔軟なものになっていたという場を経験させてもらった、という感じ。
(このような場は、本物の作者が自分の作品について直接コメントすることが禁じられていることによって生じているで、本物の作者としては、ややモヤモヤが残る、ということはあったのかもしれないけど。)