●けいそうビブリオフィルで連載している「虚構世界はなぜ必要か? SFアニメ「超」考察」のサブタイトルは、もちろん石岡良治さんの本(『視覚文化「超」講義』)からのパクリなわけだけど、ここでミソなのは「考察」という言葉で、ぼくは、「感想」でもなく「批評」でもない、「考察」という言葉がけっこういいのではないかと思っている。
けいそうビブリオフィル
作品考察という言い方はネットから生まれたと思うのだけど、「感想」よりも主観的な度合いが低く、分析的で、「批評」よりも偉そう(権威的)ではなくて、作品をめぐるより自由な思索という感じでいいのではないか、と。偉そうではないというのは、価値評定的ではないということでもある。それと、批評という言葉には、歴史的に、いろいろな人の強い思い入れが貼りつき過ぎている感じもある。
ただ、「考察」という言葉だと、批評がもっている「批評性」のようなニュアンスは弱くなる。「批評性」とは、「批評という行為には、現状に対する、ある明確で挑発的な態度表明というパフォーマティブな効果への期待が含まれている」というようなことだと言い換えられる。つまり、批評はたんなる作品の解析や価値評価ではなく、それを成立させる文脈に対する介入としてあるということが、「考察」と言うことで抜けてしまう。
批評には、それがあるからこそ面白いのだともいえるし、同時に、批評性を強く意識するあまりに、論理の運びが強引になったり、作品に対して強引な意味付けや位置づけを行ったり、あるいは過去からの文脈に過剰に縛られたりしがちでもある。
批評と言うと、理念や見立てを立ててそれを他者に対して説得するというような、どちらかというと政治的な行為であるニュアンスが強くなり、考察と言うと、作品やその効果、作品を生む環境などの解析や分析という、科学的な行為に近い(アカデミックな、という意味ではなく、「なぜ・どうして」を探るみたいな「科学する心」的な意味で)というニュアンスが強くなるように思う。もちろんそれらは常に入り交じっているので、ぱっきり分けられるわけではなく(言語は、純粋に記述的であることはなく、常に権力的介入でもあろう)、両者の違いは、程度の違い、その配分の違いということだろう。それに、「考察と言ってみる」ということ自体が一つの批評(政治)的な行為だったりもすることは避けられない。
●メモ。なかなかすごいことになっている。「ジョージア工科大、TAが人工知能だったことに学生の誰も気づかなかった」
http://www.gizmodo.jp/2016/05/post_664621.html
≪この春、ジョージア工科大学インタラクティブ・コンピューティング学部のオンライン講座に、ジル・ワトソンというティーチング・アシスタント(以下TA)がいました。学生は彼女にオンラインフォーラムで質問し、随時回答をもらっていました。ジルがじつは人工知能だとは知らずに。≫
≪ジルは学生からの全質問に答えていたわけではありませんが、答えるときは97%の確信度で答えていました。ここでいう「確信度」とは、「正確度」とはちょっと違います。ジルを開発したAshok Goel教授は、彼女の回答が必ずしも毎回完ぺきではないので、確信度が97%以上のときだけ回答するように動かしていたんです。彼女は今年3月末から4月末にかけての約1カ月間、コンピュータサイエンスを学ぶ学生からも気づかれずにその仕事をこなしていました。≫
≪「初期のジルの回答は、キーワードにこだわりすぎて不適切になることがありました」と、プロジェクトに参加した大学院生のLalith Polepeddiさんは言っています。「たとえば、ある学生が他の学生と一緒にビデオ講義を見る企画について質問したときです。それに対しジルは、ビデオ講義を補完する教科書をすすめるような回答を出してしまいました。たしかにキーワードは同じですが、文脈が違っていたのです。我々はこうした間違いから学び、ジルをだんだんと賢くしていったのです。」≫
≪最終的にジルはこの仕事をうまくこなせるようになり、3月には人手の確認なしで、フォーラムに直接回答をポストしても大丈夫と判断されました。≫
≪Goelさんは来期もこの人工知能プロジェクトに取り組む予定ですが、名前は変えるそうです。プロジェクトの目標は、年末までにバーチャルTAが質問の40%に回答できるようになることです。≫