●『ガッチャマンクラウズ』、最終回。この作品に関しては山のようにつっこみどころがある(ほんとにいくらでもある)とは思うのだけど、しかしそうだとしても、それはそれとして、とても野心的で刺激的で新鮮な、面白い作品だったと思う。宮崎駿が言う「悪人をやっつければ平和がくるという映画はつくらない」という理念を「ヒーロー物において実現する」というとんでもない無理ゲーをなんとかクリアした、みたいな感じ。それによって、物語によって表現可能なものの新しい地平をつくりだしたといってもいいように思う。
ヒーローのオープンソース化(正確にはオープンソースとは言えないのでフリーウェア化というべきか)。それに伴う課題とその乗り越え(に関する希望的展望)みたいな話ともいえる。そういう意味で『南極点のピアピア動画』に近い感じもある。こういう概念は、たとえば今のハリウッドのヒーロー物的な想像力には全くないものだと思う(きっとそのうちパクるだろうけど)。最終回も、ギリギリでなんとか納得できると言えるものだった。いや、さすがに最後はちょっと端折り過ぎで厳しいとは思うけど。
「ギリギリでなんとか納得できる」という言い方だと、すごく消極的な感じがするけど、こんなにとんでもなく大風呂敷を広げた話を、途中で「台無し」にすることなく、なんとか、最低限たどり着くべきところまではたどり着かせることができた、というのはすごいことだと思う。正直、途中で何度か、これはもう無理なんじゃないか(破綻するんじゃないか)と思いかけたので。
しかし、ヒーローのフリーウェア化は、この物語では「X(+ギャラックス)」という全体にくまなく視線をゆき渡らせ、俯瞰することのできる超越的知性(コンピュータプログラム+ネットワーク)によって可能になるとも言える。つまりそれには「人間」とは別種の知性=技術による---管理ではないとしても---監視が前提となる。それによって、人々の間に相互観照が可能な環境が生まれ、その相互観照こそが人々の意識の変化を導くことに繋がる。これは安易に考えると、一方で技術万能論みたいな、無邪気な、ハッカー的なアナーキーユートピア像になり、また逆に他方では、個々の人間性を無視したビッグブラザーによる支配のような(あるいは相互干渉---空気の読み合い---という全体主義的な)ディストピアとして描かれるようなものになってしまうと思う。しかし、もはやそれはフィクションとしてどちらも安易だし陳腐だ。
そのどちらでもないものの可能性を、どのように物語としてイメージ可能な形で示すことができるのかが、この作品では試みられているように思う。その試みが、「はじめ」という独創的なキャラクターの造形に賭けられているものだと思う(とはいえ、なにもかも「はじめ」に丸投げしすぎだろ、という批判はあり得るけど)。
あと、ヴィジュアルデザインが斬新でかっこいいからこそ一層、作画の粗さ(というか、絵の下手さ)がすごく気になってしまった。製作スケジュールとかタイトなのだろうけど、そこは惜しかった。
●(ちょっと昨日のつづき)昨日のART TRACEのシンポジウムで松浦寿夫さんが、かつて美術批評では、装飾的な文体というか、過度にレトリカルな文体の批評が支配的で、それに対する反感のようなものがあって、アメリカ型のフォーマリズムへの注目に繋がったというようなことを言っていた。その感じはすごく分かるというか、そのような感情はぼく自身の二十年くらい前の感情にも近いように思った。
しかし、現状はおそらくかなりの変化があって、今ではむしろ、「詩人による美術批評」「文学者による美術批評」(かつてそれは支配的であり、よって仮想敵だった)のようなものが一切なくなってしまったということの方が問題であるようにすら、ぼくには感じられる(「ある」のかもしれないけど、それは美術の方にまで響くようなものにはなっていない)。今もっとも必要なのは、「キレのある印象批評」のようなもので、そういうものがないことが、美術というものを狭く、息苦しいものにしている感じがある。
おそらく今は、アカデミックなレベルで優秀な研究者みたいな人が「現場」との交流をもち影響力をもつというようなことにはなってきていると思う。さらに、国際的に活躍するアーティストが出てくることにともなって、グローバルに流通する言説(や市場)に鍛えられた書き手のような存在も、きっと遠からず出てくるのだろうと思う---ぼくが知らないだけで既にいるのかもしれないし(勿論、テキストの翻訳はもっと活発にされてほしいけど)。しかしそこで足りないのは、アカデミックな文脈やグローバルな美術の動向というハイコンテクストなところとは切り離された場所から発せられる、鋭い(センスのよい)半素人的な人(あるいは「何かの別のことの達人」とか)による「キレのある印象批評」のようなものだと思う。それは、いかにも各方面に気を使っているという感じの、広告のためのゆるい推薦コメント(ステマ)みたいなやつじゃなくて(批評は基本的に素人芸---インサイダーでもアウトサイダーでもない中途半端な視線---だと思うし。)。
それはある程度属人的に色づけられたもの(つまり一般化されないもの)であり、そうであることによって特定の文脈からの自由度があり、しかも検討に値する面白さ(内容)がある、というようなものだ。その批評は、ある程度限定されたローカルな存在である必要もあるかもしれない。ぼくは、そのようなものこそが、人をひきつけ、フレームを流動化させ、人々を柔軟にし、気付きをもたらし、場を活性化させるのだと思う。少なくともぼくは、そういうものがなければ息苦しくて耐えられない。
印象批評としてのキレ、あるいは文体という話になると、すぐにレトリックとか芸とか技術とかいうことが出てくるけど、それはきっと間違いで、文体とは、その人のもつその人なりの鋭さであり、冴えであり、あいは呼吸やクセであり、そして人柄であるというようなものだと思う。その人のクセや人柄が、作品と出会うこと、作品について書くことで、どのような相互作用が、化学変化が発生するのか、ということが重要なのだと思う。そしてそれを読む人にも何かを伝える。実際、芸術で最も重要なことは「そこ」だと思う。
(まあ、でも、キレや柔軟性のない印象批評は最悪なのだけど。)