2024-10-21

⚫︎個としての行動の合理性と「個の合理性」の集積の結果としてある、集団としての振る舞いの合理性との間には、大きなギャップがある。よく言われる例だが、個が、自分の将来のために倹約と貯蓄に勤しむとする。それは個としては合理的な行動だろう。だが、そのような個が大多数となると、消費が冷え込んで不景気になり、「倹約する個」にとっても結果として不利益になる。では、散財すればいいのか。その場合も、「私」が散財したからといって、他の大多数の個が倹約していたら、私の散財には意味がなくなる。個として、どのように判断して行動すればいいのかの確定した解はない。

(だから「投資」しろ、というアウフヘーベンがやってくるのだが。)

国政選挙のような大規模の投票において、ぼくの一票になど、実質的にはほとんど意味がない。個としては、これが合理的な判断だろう(特に熱心な政治信条や支持政党がない場合は)。しかし、多くの人が「自分の一票になど意味がない」と思って投票に行かないと、投票率が下がって、組織票を持つ奴(あるいは、政治=カルトに熱心なヤバい奴)が勝ってしまう(極端な政治信条や権力との癒着を持つ人は「動機」があるので積極的に投票する)。それは結局、自分の住む場所の環境を悪化させ(偏ったものにさせ)、自分自身の利益を損なうことになる。

だからロジックとしては次のようになると思う。私の一票そのものには実質的には微々たる意味しかない。しかし、そうであるにもかかわらず、私は私のために投票しに行かないわけにはいかない。

ただしこの場合も個と集団のギャプがある(厳密に言えば上のロジックには先取りされた上から目線が含まれてしまっている)。「(この)私」が投票に行ったからといって投票率が上がるわけではない。あるいは「(この)私」が投票に行かなくても投票率が上がることはある。だとすると、「(この)私」の行動と投票率の高低とは直接の因果関係は、ほとんどないことになってしまう。

ただ、あらゆる「私」が限定された「(この)私」でしかあり得ないとして、「私」が、《どの「(この)私」》となるのかは事前に確定できない(つまり、投票率を上げた「(この)私」となるのか、投票率とは無関係だった「(この)私」となるのか、あるいは、選挙結果に影響を与えた「(この)私」となるのか、まったく影響を与えなかった「(この)私」となるのかは、事前にはわからない)。だから、未だ《どの「(この)私」》でもない《未然の「(この)私」》である投票前の「私」は、選挙に行くことでプラマイゼロかプラスになるかどちらかとなり、行かないことではプラマイゼロかマイナスかのどちらかになるので、利己的な理由としても、投票に行く方が行かないよりも(やや)いいことになる。

(投票した場合、「投票が何かしらの影響を与えた」がプラス、「投票してもしなくても同じだった」がプラマイゼロ、投票しなかった場合、「投票してもしなくても同じだった」がプラマイゼロで、「もし投票していたら影響を与えられた」がマイナス。「(この)私」が、この四つのパターンのどこに配置されるのかは、「投票を行う / 行わない」より前、そして「投票の結果が出る」より前には分からない。私の投票には、意味があるかもしれないし、ないかもしれないのだが、意味があるという場合があり得る、ということは言える。)

⚫︎実際には、メディアによる事前の動向調査があり、ある程度は「他者たちの動向」が分かってしまうので、「意味がある」確率が高くなるような行動を戦略的に取ることができてしまうのだが、それが良いことだとはあまり思えない。

(良いことだとは思えないとしても、そうせざるを得ない…、のかもしれない。)

⚫︎市議会議員選挙くらいのレベルでは、どのようにして投票先を決めるべきなのかを、かなり真剣に考える。しかし国政選挙となると、考えるまでもなく消去法で一瞬で決まる。決まるというか、地獄の消去法で選択肢がない。