2020-10-07

●U-NEXTで『わたしのSEX白書 絶頂度』(曽根中生)を観た。高校生の時に読んだ『シネマの記憶装置』でこの映画の存在を知ったのだが(手元にある本には、一九八五年二月二十五日第五刷と書かれている)、実際に観ることが出来たのはそれから十年以上あとになってからだった。かなり画質の悪いVHSだったと思う。今回で観るのは四回目くらいだが、クリアな画質で観られた。

●主人公の女性が病院で採血係をやっているということは重要だろう。通常、注射器は男性器の比喩でありえる。しかしここで注射器は、人に挿入して薬品を放出する(射精的)機能ではなく、自らの内側に血液を受け入れるという役割をもつ。機能が反転してしまった男性器をとりあつかう女性。

●この映画の中心にあるのは、姉(採血係の女性)と弟の間にある近親愛的な関係と欲望だろう。しかし、二人が結ばれることはない。姉はしきりに弟を誘うが、弟は一貫してそれを拒否する。姉には婚約者がいるが、婚約者との性交では満足できず、弟とやりたいのだが、やれなくて悶々としている。おそらく、弟もまた姉とやりたいのだが、近親愛という禁忌への忌避の感情が欲望を上回っていて、故に欲望に常に強い抑制がかかっている状態だ。弟も悶々としているのだが、強い抑圧により、それが欲望の不活性と不能状態という形で表現されてしまっている、と言えるだろう。

姉の、弟への満たされない欲望は、ヤクザ者を媒介することで売春へと展開していく。弟の、姉への欲望の不活性と不能は、弟の友人の突然の病気と死という形で、弟自身から分離して表現されている。

ピンク映画であるから、数多くの性交場面があるのだが、触れあうこともなく、決して結ばれない二人の関係の、絡み合う引力と斥力を表現する描写こそが、この作品の基底的な調子を形作っていると思われる。

●絡み合う欲望が複雑に押し合いへし合いしながらも、ある拮抗-停滞状態を形成している姉と弟の関係に対して、ヤクザ者とその愛人が揺さぶりをかける。それによって現れるのが、三つの、三人による性交場面だろう。

一つめの三人関係は、弟と、その友人と、看護師によるものだ。友人が入院している病室で、弟がナイフで看護師を脅し、裸になって、友人と口唇性交することを強要する(この場面を予告するものとして、三人で病室にいる時に、画面が二重写しになって看護師が半分裸になる場面がある)。この場面で、弟によって強要される看護師と病気で動けない友人との口唇性交(射精)は、不能状態にある弟の性交と射精の代理的な行為であろう。弟はここで、自分には不可能な(姉との)性交と射精を、病気の友人に代行させる(病気の友人は弟自身の欲望の不活性と不能の「表現」でもある)。とはいえ、この代理行為によって弟が満足することはない(そして、この射精の直後に、友人は亡くなってしまう)。

二つめは、姉と売春の客たちとの三人関係だ。ここで、姉のする売春という行為が、満たされない弟への欲望の代理的な行為だということを確認しておく。姉が、運転手に伴われ、企業の重役室のような部屋に導かれると、そこに重役風の男性客がいる。そして、行為の途中に、(重役風の男性の「今だ」という声により)傍らにいた運転手(男)も性交に加わってくる。この場面で、実質的に性的な関係にあるのは、重役風の男性と運転手の男性であって、姉は、二人の関係を媒介するモノとして「使われた」だけだと言える。故に、ここで姉の欲望が満たされることはない。売春という形での姉の代理行為もまた、成功しない。

(そしてその後、弟が姉のもとを去り、二人の関係は結ばれないまま終わる。この、弟が出て行くきっかけとなった二人のやりとりの描写がすばらしい。)

三つめは、この映画のラストにある、姉と、ヤクザ者と、その愛人による三人関係だ。姉とヤクザ者とが性交しているところに愛人が帰ってくる。愛人は嫉妬し、怒り、行為をやめさせようとする。だが二人はかまわず行為を続け、ヤクザ者は愛人に二人の行為を写真に撮ることを命じる(ヤクザ者はポルノ写真を販売している)。だが愛人は二人の行為を撮らず、棚の上や照明など関係ない場所の写真を撮る。

この後、唐突に三人による性交がはじまる。一つめの三人関係が、一人(弟)の行為の代理としてなされる二人(友人と看護師)の行為であり、二つめの三人関係が、二人(運転手と重役風の男)の行為のために一人(姉)が媒介として使われるという形であり、どちらも2+1としての三人関係であった。だが、ここでの三者による性交は、それが決して2+1へと分離しないような、常に三つ巴となるような形で演出されている。

そもそも、最初にヤクザ者と愛人との関係があり、後から姉がそこへ加わったのだが(この場面ではその逆に、最初にヤクザ者と姉が性交しており、そこに愛人が加わるのだが)、そうだとしても、ここでは、誰かの行為が別の誰かの欲望の代理となることもなく、誰かの存在が別の関係の媒介となることもない。姉とヤクザ者、ヤクザ者と愛人、愛人と姉という、三つの二者関係が途切れることなく循環しているような性交が行われる。

●とはいえ、近親愛という禁忌もなくなり、代理も媒介もなくなり、欲望との距離を維持できなくなった姉は、勤務中でも常に欲情しつづけるしかなくなる。