●出かけようと思ったが、今日中に洗濯して干しておかないと明日着るものがなくなってしまうので、洗濯機を回し、その間に「モナドジー」を読んだ。構えていたのに、洗濯機を回している間に読めてしまうという、予想外のあっさり感こそが逆に難物っぽい。
《だからまた、完全な新生もないわけだし、厳密な意味での完全な死、つまり魂が体から離れるところに成りたっている死もないのである。ふつう発生と呼んでいるのは、「外へひろがること」であり、増大のことであるにすぎない。死といっているものも、「内へすぼまること」であり、減少のことであるにすぎない。》
《(…)魂には魂自身の法則がある、体にも、体自身の法則がある。それでいて両者が一致するのは、あらゆる実体のあいだに存在する予定調和のためである。そしてその調和が可能なのは、どの実体も、みなおなじ一つの宇宙の表現にほかならないからである。》
《魂は目的因の法則にしたがい、欲求や目的や手段によって作用する。物体は動力因の法則、つまり運動の法則によって作用する。しかもこの二つの領域、目的因の領域と動力因の領域は、たがいに調和しあっている。》
《この説でいけば、物(肉)体は魂がないかのように[じっさいには不可能であるが]作用し、魂は物(肉)体がないかのように作用する。しかもどちらも、おたがい作用しあっているかのように作用する。》(「モナドジー」)
●魂も体も死ぬことはなく、それは宇宙のはじまりとともにはじまり、終わりとともに終わる。それらは同じ宇宙の、一方は目的因によって作用し、もう一方は動力因によって作用する、ことなる二つの表現である。だから、互いにバラバラであるかのように作用し、また、作用しあっているかのようにも作用する。おそらく、「心身問題」というのは、どこまで行っても、このような形でしか解きようがないのだと思われる。
ただ、ここでわずかな違和感があるとすれば、「魂」は死なないとしても、やはり「体」は死ぬんじゃないかという感覚だ。それは錯覚にすぎないのかもしれないが、ただ錯覚だとしたら、我々の持つ「常識」は何故、こんなにも強く「体」は死ぬという感覚に固執するのか、が改めて問題となる。つまり違和感とは、魂と体はやっぱそんなにぴったりは重ならないんじゃないの、という感じだろう。
●例えば、モナドジー論でもある西川アサキの『魂と体、脳』でも、その点が強く意識されているように感じられる。ここでは、ドゥルーズが参照され、魂による目的因的な作動を生む力が現働化、体の動力因的な作動を生む力が実在化と呼ばれていた。
《つまり、「現働化」は、モナド=精神の中での「明るい部分(「特権的な帯域」)と暗い部分の配置」を決めることだ。その意味で、全体は先に与えられ、その上にどのゾーンが明晰でどの領域が混濁したバックグラウンドなのかという分布、つまりクオリアの強度分布(本書で「フレーム」と呼んでいるもの)を配分してゆく。一方、「実在化」は、「物質」の中での出来事の実現であるという。「実現」が何を意味するのか解釈は難しいが、本書ではそれをとりあえず「共可能性の探索」として考える。ある出来事と別の出来事は、矛盾なく共可能なのか? そうではないのか? それは手探りの過程であり「部分から部分に、近いものから遠いものにいたる」からだ。》
魂においては全体が先にあたえられるが、体においては、部分から部分へ、近いところから遠いところへといたる。「モナドジー」では、この二つの働きは予定調和によってぴったりと重なる。体のない魂はなく、魂のない体もない。それはもともとおなじものの二つのあらわれだから。とはいえ、それだとごく素朴に、現働化されるが実体化されないものや、実体化されるが現働化されないものというのもあるんじゃないかと思えてくる(「モナドジー」にはそんなものはないと書かれているが…)。
ここで西川アサキは、魂と体の間にあって、その区別をつくりだすプロセスのことを考える。つまり、現働化と実在化という二つのプロセスがあるのではなく、ある「何か」を、現働化と実在化ということなる表現形へと振り分けるプロセスだ。それは《何が共可能で、何が不共可能なのかを決めるプロセス》だとされる。
《「身体」が必要になるとは、実はこういう意味だと思う。身体は、何が共可能で、何が不共可能なのかを決めるプロセスによって決定される。そのプロセス内部に不確実性をはらんだ「実体的紐帯」によって、身体と魂の区別、支配されるモナドと支配的なモナドの区別を決める。だから、新たに「身体」が必要になるということは、「魂」しかないモナドジーの観点からみた思考であって、事の本質は、「魂と身体の区別」の不確実性にある。》
ここで、三人称と一人称の間にある二人称として、予定調和のなかに不確実性が導入される。その不確実性とは、何が共可能で何が不共可能なのかを「あらかじめ」知ることは出来ないということだろう。そして、それを知るための実験場として「体」が必要となるというのは、あくまで「魂」の側(モナドジー)から見た言い方であって、《事の本質》は、(引用した部分を裏返して言えば)「共可能と不共可能とを決定するプロセスが原理的にもつ不確実性」こそが、魂と体とを分離させるのだ、ということになる(これは、郡司ペギオ-幸夫の議論とも重なる)。それはつまり、「宇宙(あるいは神)」というのは不確実性のことだということにもなり、予定調和とは真逆の結論となってしまう。
しかし、「モナドジー」では、モナドは《内的な原理》でのみ変化すると書かれていたが、この「内的な原理」と「不確実性」を「=」で結ぶとすれば、「モナドジー」と『魂と体、脳』は共可能であるとも言えるんじゃないだろうか。