⚫︎『水星の魔女』、23話(プロローグを含めると24話め)。
⚫︎「私たち、家族になるんですから」と、ミオリネがプロスペラに言う。次回、ついにミオリネとスレッタが結ばれるのか。今回で、物語の大筋は畳まれた感じもある。次回の最終回は、残務整理と、登場人物たちの未来に向けて、という感じになるのか。あるいは、まだミオリネがシャディクに頼んでいた「何か」がなされていないし、そして、ペイル社のCEOたちとエラン・オリジナルがどう動くかという不確定要素があるので、ダメ押し的にもう一波乱、かつ、大どんでん返しがあるのだろうか。また、大きな展開があって「続きは劇場版で…」という可能性もある。
⚫︎スレッタとエリクト(エリィ)との対話が平行線であるなかで、ここまでずっと不在だった「もう一人の母(ミオリネの母)」の存在が大きく浮上してくる。「面白い物語」の構築としては、なるほどと納得する。前回、さらっと出てきたトマトのエピソードがここで効いてくる。元々、クワイエット・ゼロの構想はミオリネの母によって始まり、ミオリネの父(デリング)によって発展したもので、それをスレッタの母(プロスペラ)が横取りしようとしたが、ここで「オリジナルの意思(ミオリネの母の思想)」が、プロスペラ-エリクトの意向に「否」と言う。つまり、『水星の魔女』においてニュータイプ的なものを担っていたのは、プロスペラではなく、ミオリネの母だったということになるのか。そしてそれは、最後まで物語の背景としてあり、積極的に前には出てこないが、差し迫った破壊的な状況のなかで「抑止力」として働くものとしてあった、と。具体的な力というよりは技術に埋め込まれた「思想」という抑止力。
(欲を言えば、スレッタとエリィとの対話をもう少し深掘りして欲しかった、という気持ちはある。)
(プロスペラに、怨嗟と娘への執着以上のヴィジョンが何もなかったことに、ちょっと拍子抜けした感じはある。あるいは、エリィが、復讐に執着する母に付き合いつつもどこかで違和感を持つ、みたいな感じを期待したが、エリィはスレッタとは違って、対話可能な相手というより、全く子供のままである幽霊のようなものなのだな、と。自己犠牲的振る舞いも含め、良くも悪くも無垢なまま、というか。)
(スレッタとエリィとのきょうだい対決が平行線のまま終わることの代補として、グエルとラウダのきょうだい対決とその和解(抱擁)があったのかもしれない。ラウダは、ガンダムに必ず一人は出てくる、真面目で善良であるが故に拗らせて道を踏み外すイキリ男のパターンだが、兄はそのような弟を受け入れる。カップル的には、ミオリネ・スレッタと、グエル・ラウダという組み合わせに落ち着く感じか。)
⚫︎そして、ここで惑星間レーザー砲が出てくるのか…。これまで『水星の魔女』の展開に強引さを感じたことはほとんどなかったが、流石にここでは、物語を力技で畳みにきているなあと感じた。そして、最も強い兵器を所有しているのは、企業ではなく、それを上から統括する「国家」であった、と。これまで、宇宙議会連合は、上から統治する「国家」ではなく、あくまで企業間抗争の「調停役」という横並びの位置にあるという建前だったが、危機的な状況下で「最も強い兵器を使う権利を有していた」という意味で、事実上、宇宙議会連合は企業の上位にある「国家」ということになるだろう。緊急時にこそ国家権力が露わになる。そして権力にすり寄り、復興利権までちゃっかり手にする裏切り者のペイル社CEOたち。リアルだ。
(結局、最も強い暴力装置を持つものが「国家」の位置にくるのだ。)
⚫︎とはいえ、もしミオリネたちが、データストームの磁場(?)の作用を停止していなければ、クワイエット・ゼロは無傷なまま惑星間ビーム砲を跳ね返すことも出来たはずだから(実際、エリィたった一人の力によってレーザー砲を防ぐことができた)、ミオリネの母、デリング、プロスペラの協働によって作られた、クワイエット・ゼロは、十分に国家に抗する(最も強い暴力装置をも無力化する)力のある「革命装置」たり得たということになる。もし仮に、プロスペラが私怨のために使うことをやめて、ミオリネやスレッタの世代にクワイエット・ゼロ(+エリィ)を託したとするならば、(シャディクのように強引な策略を立てなくても)彼女たちの世代が社会の状況を変えることが可能だったのかもしれない。ポジティブな可能性を持った(ニュータイプ的)技術が、ややこしく錯綜する状況によって、その可能性を生かすことなく潰えてしまうという、ガンダム的なニヒリズム。
(レーザーを食い止めることと引き換えのように、エリィは消滅してしまった。エリィが消滅してしまえば、クワイエット・ゼロは無力となるのだろう。)
⚫︎復活したデリングがここぞとばかり「父」の力を見せるのか、と、一瞬思ったが、父は既に全く無力だったという皮肉。
⚫︎これまでさんざん若者を見殺しにしてきたベルメリア博士が、ここへきて必死に、最低限の自分の責任を果たそうとしている。現実でも、ほとんどの人は、良くてせいぜいベルメリアであるくらいが精一杯で、多くの場合、ベルメリアにさえなり得ない。それどころか、見殺しにした自覚すらない。