●本は、読んだからといって書かれていることすべてを理解できるわけではないし、仮に、理解できたとして、そのすべてを憶えておけるわけではないし、「理解できた」時と同じ精度で再現できるとも限らない。
(自分で考えたことであっても、その「考え」のすべてを憶えているわけではないし、考えた時と同じ精度で再現できる保証もない。)
読めるか読めないかはほぼ能力の問題であって、適当に読むのか精読するのかという態度の問題ではない。いくら一生懸命に読んでも理解できない(誤読してしまう)という「わたしの読解力(頭の程度)」こそが、わたしにとってはどうしようもない制約であり条件であり、それこそがまず最初の「他者性」として働く。
(「わたしの読解力」は、発話者にとっても他者であり――発言がどう理解される分からない――、そして読解するわたしにとっても他者である――どこまで理解できているか分からない。)
素朴な話、いくらがんばってもよく分からないという「わたしの頭の悪さ」こそが、「わたし」にとって、物理法則並みにどうしようもない世界の条件として降り注いでくる。「オレはこれがどうなってるか知りたいんだ、少なくとも現在までに明らかになっていることを教えてくれ」という願いに対して最も強力な障害となるのは、何より自分の頭の悪さだ。
(そして、このような「わたしの頭の悪さ」は、原理的にすべての「わたし」が――程度の差はあっても――もっているはず。このような意味での「わたしの頭の悪さ」こそがクオリアなのかもしれない。)
追記。これはコミュニケーションの不可能性みたいな深淵な話ではなく、たんにスペックの違い、あるいは構造的限界といった話です。例えば、人間ならたやすく理解できることが、蛇やカエルにはどうしたって理解できない、というような意味での「頭の悪さ」です。コミュニケーションや愛情ということであれば、ヒトとカエルの間でも充分に成り立つと思います。