2019-07-04

●昨日の日記で、不思議な「納得の形式」がある、ということを書いたが、それで思い出したのは少し前に読んだ、「飛行機がなぜ飛ぶか」分からないって本当?(日経ビジネス)という記事だった。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061400036/?P=1

ここでは物理学者の松田卓也が、「なぜ飛行機が飛べるのかを科学的に説明できていない」という風説に対して、いや、実はちゃんと説明できているのだとして、非常にややこして説明をしているのを、山中浩之という記者が書いている。

それはそれとしてとても面白いのだが、ここで取り上げたいのは、この記事の最後に、人間にとって「合理的に考えること」がなぜ自然ではないのか(合理的に考えることがなぜ難しいのか)ということの説明として引用されている、マイケル・シャーマーという人の言葉だ。

https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00059/061400036/?P=9

《人間はバカだというけどそれは違う。バカはバカなりに合理的なのだ。これは遺伝的に組み込まれているんだ。2人の原始人が300万年前、アフリカのサバンナを歩いていたとしよう。そこに藪があった。前を通り掛かったら、ガサゴソという音がした。これがライオンか風なのか分からない。

それで1人はばっと逃げた。もう1人は合理主義者で、『これは風かもしれない。だったら逃げる必要はない。ちょっとテストしてみよう』と石を投げてみた。そうしたらライオンが出てきて食われてしまったと。だから、そういう合理主義者、理屈に従う人間は淘汰される。怖がって、理屈も何も無い、何でもいいからぱっと逃げるほうが生き残る》

「合理主義者が淘汰される理由」として、上のたとえ話は「合理的」ではないように思われる。藪からガサゴソと音がして、それがライオンか風か分からない場合(つまり、ライオンである可能性が一定以上高い場合)、まず「逃げる」のが合理的な判断ではないか。これはライオンかもしれないが、しかし風でしかないかもしれない、ならば、まずは逃げよう、というのが合理的な思考ではないか。たとえ風であったとしても、逃げるために必要な---無駄かもしれない---労力は、ライオンに襲われるリスクと比べれば大したことはないものだろう。「テストしてみよう」と石を投げるとしても、とりあえず安全を確保できる位置まで逃げて(たとえば---サバンナには希少かもしれないが---高い木の上に逃げて)、それから石を投げてみるというのが、合理的な人のすることなのではないか。ライオンである可能性があるのに、いきなり石を投げてしまうのは、たんに迂闊な人(何も考えていない人)でないとすれば、一か八かに賭ける極度のギャンブル好きということになると思う。とはいえ、このギャンブルに勝っても---生死を賭けたスリルという快楽以外---配当は大したものではないが。

(「石を投げる」という行為は「賭け」であって、「テスト」という概念にはならないのではないか。)

(仮に、その藪の先に、自分たちの生活に必要な希少資源---たとえば湧き水---が隠されている可能性があるという場合、リスクを負ってでも石を投げてみるという選択が合理的である場合もあるだろう。しかしそのような前提は示されていない。)

たんに、もっと上手いたとえ話はなかったのか、という話でしかないのだけど、少なくとも、これをもって、何も考えず直観的に判断する人が生き残って、理屈をこねて考える人が淘汰される説明(根拠)とすることが合理的でないことは明らかであるように思う。ぱっと逃げる人が直観的に行動する人だとして、もう一方の石を投げる人は、ただ迂闊な人かギャンブル好きな人で、このたとえ話のなかには合理的に考える人が登場しない。だからこの比較から「合理的な人が淘汰される」という結論はでてきようがないように思う。

(たとえば、考える人は、結果として逃げるとしても考えているその時間分の遅延があるから、ライオンに襲われる確率が高くなる、という話ならまだ理解できる。)

(さらに言えば、「石を投げる」一か八かに賭けるギャンブル好きという性質も、淘汰されることなく、現に今の人類にまで広く残っている。)

(もしかすると、300万年前のまだ猿人と言われる時期の原始人は、「藪が動いた逃げる」という思考を介さない自動的な行動をとるか、思考したとしても、せいぜい「風かも」「試してみよう」くらいの思考の萌芽---ワンステップがツーステップくらいの思考---しかもっていないという前提が、このたとえ話にはあるのかもしれない。そうであれば、原初的な思考の萌芽をもった者は淘汰されるというたとえ話になることはなる。しかし、猿人は既に道具を使用していたと考えられており、道具の製作と使用には---物事の相関関係にかんする---何ステップもの合理的な思考の過程が必要だろうということを考えると、その前提は疑問だと感じる。また、意識的思考をもつ者が淘汰されるとしたら---たとえそれが必ずしも合理的なものではないとしても---それを持つ我々の方が現在まで生き残っていることと整合的ではない。)

最初に道具を使った人類はアウストラロピテクス(ナショナルジオグラフィック)

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/nng/article/20150127/433311/

(この場合、迂闊な人とは、たんに何も考えていない人ではなく、テスト-実験の場と、自分の生命が賭けられた現実的実践の場との区別がついていない人、ということかもしれない。300万年前の猿人が未だ、個としての自分の存在や命に重きを置いていなくて、集団のなかの交換可能な一つの存在としてしか自分をみなしていないのであれば---「死」を恐れてはいない段階にあるのだとすれば---自分の命を賭けた行為を複数回再現可能な一種の実験とみなすこともあるのかもしれない。その場合であれば、この「石を投げてみる」という行為を、個というよりも、一つの集団のなかに生じた合理的思考-実験であると考えることは確かにできるかもしれない。)

(モデル-実験の場と、自分の生命が賭けられた現実的実践の場との区別は実質的に「ない」ものとして考える場合、つまり、特定の個や種にとっての合理性ではなく、地球上の「進化」という過程それ自体の全体を大きく一つの合理的思考過程---アルゴリズム---として考えるのならば、「ぱっと逃げる人」も「石を投げてみる人」も、どちらも等しく大きな思考過程の一部であり、どちらか一方が合理的だとは言えないはず。)

このような、たとえ話としてさえ成り立っていないような話を、この記事を通じて複雑な理屈を丁寧に語ってきた、合理的であるはずの物理学者が最後になって不用意に持ち出してくるという事実にとまどうのだ。それまでの論理の厳密さに対する、この粗雑さのギャップはどこからくるのだろうか、と。

おそらく、話が「たとえ話」という次元に移行したとたんに、「納得の形式」のありようが変化するのではないかと推測される。うまい言い方のたとえ話(ここで示されたたとえ話が「うまい」とは思えないが)は、適切であるかないかとは関係なく、その「うまさ」そのものによって納得力をもってしまう。これも(ここではネガティブな意味での)フィクションの力なのではないか。

「たとえ話」としてものごとを把握すること自体がネガティブであると言っているのではない(それどころか、ぼくは最近そのことにこそ積極的な興味がある)。ただ、それは合理的な把握とは異なる形式の把握の仕方であり、それをあたかも合理的であるかのように使おうとすると、おかしなことになるということだと思う。

(ここで問題にしているのはあくまで「(あたかも合理的に根拠を示しているかのような)たとえ話」が実は適切ではない---合理的な根拠になっていない---ということで、「人間は基本的に合理的思考が不得意である」という認識にかんしては同意できる。)