●「note」では、自分が投稿した記事すべてを合わせた総ビュー数と各記事それぞれのビュー数が投稿者には分かるようになっている。記事の数で総ビュー数を割ると、一つの記事当たりの平均ビュー数が出るわけだけど、それと、それぞれ個別の記事具体的ビュー数のバラツキを比べてみると、「平均」という操作がいかに意味のないものかということが分かる。「人気の差(偏り)」というは、すごくえげつないものだと感じ、心が痛くなる(直視するのがつらい)くらいの明確な格差がそこにはある(何故、「この記事」を、みんなこんなに見ないのか理由が分からない、とか、思ってしまう)。
けっきょくは、どれもぼくが書いたりつくったりしたものだから、基本的な方向性やテイストや質として大して違いはないはずなのだけど、それでも記事ごとにこれだけビュー数に差があるということは、「この世界」全体を見てみるならば、おそろしいほどの格差が広がるのはむしろ自然なのではないかとさえ、思えてくる。
多様性が高まれば高まるほど、その間の格差が大きく広がるということが「自然」なのだとすれば(この宇宙にあるものは大抵べき乗則にしたがって分布するというのが本当なら、格差があるのは、資本主義のシステムが搾取しているのではなく、この宇宙とはそういう場所なのだということになる)、我々はその「自然」に、どうすれば、どの程度、逆らうことが出来るのか。それとも、受け入れるしかないことなのか。などと、つい考えを飛躍させてしまう。
世界を計量化する精度や解像度が上がることは、勿論、悪い事ではない。それによって新たに分かるようになることは多いし、改良可能になることも多いはずだ。とはいえ、見えすぎてしまうことは、「希望を持つ」ことを困難にする。人は見えてしまう具体的な数字に囚われてしまう。
●インターネットで日記を書き初めて15年近く経つのだけど、この日記を今のところ長くつづけられているのは、この言葉が誰でもない誰かに向けられたもので、ほぼ虚空に向かって書いているような感じだからで、要するに独り言に近いものだからで――そして、そのような状態で「書く(考える)」ことがぼくにとってとても重要なことで――それが、例えばフェイスブックのように、「届け先の顔が具体的に見える」ようなメディアのなかに入ると、自分が何をどうしたらよいのかまったくわからなくなってしまう。
例えば、ツイッタ―はおそらく、対話の場であり、社交の場であり、公的な言論の場であるだろうけど、この日記はそうではなく、あくまでぼくのための場所であり、自分の頭のなかの一部を限定公開しているような感じで、自分の内側でも外側でもない中間地帯に広がる「書く」という場所であって、それは「人に見られる」ことを意識してはいるが、「世に問う」という種類のものではない。
ぼくには「世に問う」べきものは何もなく、ただ、面白いからいろいろ考えているだけで、自分が面白がって考えたことを、「これって面白いよね、ね」と言って人に見せびらかしてみたいということだと思う。でも、考えるためには、ただ頭のなかでぼーっと考えていてもダメで、具体的に手を動かして(そして他人が見ることを意識して)「書く(つくる)」という行為を経る必要があって、そのためにはブログ(というか、正確には「ウェブ日記」だけど)という形式が合っているということだろう。
(自分のための場所とはいっても、考えを発動させる刺激は外からやってくるわけで、それは出来事だったり、他人の考えだったり、言葉だったり、作品だったりするから、半ば内側であり、半ば外側であるように領域になる。)
だから今までは、アクセス数のようなものは意識して極力見ないようにしてきた。最初はそれは簡単なことで、カウンターを設置しさえしなければよかった。それだけで、自分が何に向けて言葉を発しているのか分からない状態になることができた。しかし今ではそれにも限界がある。システムはあたかもそれこそが親切なことだとでもいうかのように、アクセス数という「成果」を(というか、それ以上の細かい解析までを)ぼくに知らせようとする。そして、ワンクリックでそれを知ることが出来ると分かっている以上、それを知りたいという欲望に抗うことはきわめて困難だ。
だけど、とはいうものの、「この日記」を書いている限りは、実は「数字」というのはそんなに気にはならない。いや、気にならないこともないのだけど、日記を実際に書いている時に、それを意識したりすることはまずない。それはおそらく、この文章が「ウェブ日記」という形式をもっているからではないかと思う。なんの目的もなく、たんに面白がって何かを考え、考えたことを書き、書くことがまた考えることを促し、というような「何ものでもない(何処へ向かうということもない)」テキスト(おそらく「言論」というものとは最も遠い形のテキスト)は、おそらく歴史的に「ウェブ日記」というメディウムを得ることではじめて充分に可能なものとなったのではないか。
例えば、エッセイは、一見気ままに書かれているように見えても、優れた芸人が「芸」をみせるものであり(あるいは「有名人」にのみ特別に許された形式であり)、一方、個人の日記はあくまで個人という場に留まるものであるけど、ウェブ日記は、個人のレベルにあるものがいつの間にか別の場所へと滲み出してしまうかもしれないような、ダダ漏れ的で自他未分化的な性質をもつ。不定形で、何ものでもないからこそ、いろんな他のものにも沁み込んで影響を与えてゆく、というようなポテンシャルをもち得る。今では少なくなってしまったが、かつてはそのようなウェブ日記が沢山書かれていたし、ぼくもそれを読んでいた。つまり、ウェブ日記という形式(メディウム)があってくれるおかげで、ぼくは、具体的数値の力にそれほど晒されずに書くことができる。
●でも、そのような形式の外に出ると、そうはいかなくなる。「note」に投稿したり、電子書籍を自主制作したりすると、どうしても具体的数値が問題となってくる。「具体的な数値」が即座に見えてしまうことによって(意識、無意識双方に)生じる誘導の力と、「書く(つくる)わたし」とが、どのような距離や関係を形作ることができるのか。これはぼくにとって本当に難しい。