●この前のステム・メタフィジック研究会で、誰の発言かは忘れたけど落語の話題が出て、落語のアニミズム性ということで、「あたま山」とか「粗忽長屋」という例が出た。ぼくは落語をあまり知らないので、YouTubeで探して観てみたのだけど、これがとても面白かった。とくに「粗忽長屋」は、ぼくが「幽体離脱」という主題として考えていることとても深く絡んでいる。
あたま山」は、自己の自己による畳み込み(自己と自己との分離と、自己の自己への貫入)が、スケールの可変性によって成り立っている(自分の頭に出来た池に、自分が飛び込んで死ぬ)。
一方、「粗忽長屋」は、自分の死体を自分が抱きかかえるという「幽体離脱」的な出来事が、他者の記憶を介するというか、他者の知覚と記憶の乖離と混同(今、目の前に行き倒れている死体があるという知覚と、その死体の主が隣に住んでいる---今も隣にいるはずだ---という記憶との乖離と、その混同)を介することによって可能になる。他者の頭のなかで、いったん空間的な距離(仕切り)がつくられ(目の前にいる死体と、長屋で隣にいるはずの生者との空間的な分離が生まれ)、それによって、(他者の頭のなかで)自己が生きている状態と自己が死んでいる状態の同時的共存が可能になる。そして、それが他者の行為(今、そこで死んでいる死体=自己を、今、家にいるはずの生者=自己に引き取らせようとすること)によって「頭のなかの混同」がそのまま現実の時空にトレースされ、分離された二つの空間の距離が縮まることで、生きている自己と死んでいる自己との出会いが可能になり、自分で自分を抱きかかえるという行為が可能になる。ここで、媒介として「他者の知覚と記憶」が間に噛まされているところがとても面白い。
他者の頭のなかで、知覚の次元と記憶の次元とが混同され、カテゴリーエラーが起こることで、非常に小規模な範囲で、矛盾する世界の同時共存(捻じれた空間的並立)が起ることが、自己と自己との分離と対面という出来事を引き起こす。
●自己と自己との関係と、それを可能にする媒介としての第三者の他に、その出来事をカテゴリーエラーとして認識している、外側から見ているもう一つの冷静な視点も「粗忽長屋」にはある。この視点が、このお話の一応の常識的な時空の秩序を支えている。しかし、この視点が客観的だというわけではなく、カテゴリーエラーが実現してしまっている世界と、それをエラーとして見ている世界とは、「粗忽長屋」の世界では---ネッカーキューブの凹凸のように---同時に成立している。どちらか一方に偏るのではなく、エラーがエラーではなく成立してしまっている世界と、エラーをエラーと認識している世界とが共存しているところに、「粗忽長屋」という話の深いリアリティがあるように思う。
七代目立川談志 - 粗忽長屋(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=OtM0jxCVp_s
落語 枝雀 あたま山(YouTube)
https://www.youtube.com/watch?v=fXnQ_c-xyyA