●『夜戦と永遠』、ようやく第二部を読み終えた。それは歴史的には、ヨーロッパの世俗化について、中世解釈者革命について、キリスト教=ヨーロッパにおける「自由」のその外への拡張-侵略について、エンブレムとしての国家の終焉について等が語られているのだが、それらはすべて、父の機能についての話が根拠なっている。父の機能とは、ようするに根拠律を可能にすることである、と。《根拠律は「何ものも根拠=理由なしにしはない」というものであった。しかし、この「何ものも根拠=理由なしにはない」ということ自体には根拠がない》。ここには、ラカンの「大他者の大他者(メタ言語)はない」(つまり、大他者の存在を保証するものはない)という言葉が響いているが、「根拠律には根拠がない=すべて相対的である」ということが言われてるののではない。根拠律に根拠がないからこそ、そこで起こる意味の無限後退(意味の不成立)を差し止める者として、根拠律を支える存在としての「父」の機能が人間にとっては必須となる。しかし「大他者の大他者(メタ言語)はない」のだから、父は根拠律(法)の正しさを保証する絶対的な父ではあり得ないし、その代理ですらない。父の機能とは、《おまえは全能ではない、わたしも全能ではないのだから》と子供に向かって語りかける(語りつづける)、誰かの父であるのと同時に誰かの子供でもある《論理的中継点》として存在すること(のみ)だ、と。父が「中継点」として機能することではじめて、子は世界から分離し、自らが生きる(仮死の、フィクションの)世界である《鏡》の場の設立が可能になり、鏡の設立による世界との疎隔によってこそ、世界に対する一貫した問いかけ(系譜学)と世界の書き換え(テキスト化)が可能になる。論理的中継点としての父は、子を世界との癒着から切り離し、何故と問うこと(根拠律)、愛すること(鏡)、自由(疎隔)の設立を可能にする。そして、我々の社会では、そのような父の機能は、ドグマとして、美学として、芸術(テキスト・モンタージュ)によって打立てられるしかない、と。芸術は社会の建立の根底にある、と。このことは、ぼくにはただちに樫村晴香楳図かずお論「Quid」の次の部分を思い起こさせる。
《それが父の前で発せられ、父の姿が発するなら、「何なのか」という叫びは、「それは父である。それは私でありお前ではない、お前は真悟である」という声を聞くだろう。叫びは「私は父である。父は私ではない」という答を生み、世界と私は分離するだろう。そして声は分化し認識の道具となり、目は世界そのものから世界を見る意識の穴へと縮小するにちがいない。》
《だが他者に向けて立ち上がる一瞬の動きが、父の不在を巡るなら、声は「それは何か」という叫びにとどまり、意識は強度として、永遠に「それは何か」という問いを巡る。その叫び、強度は、未分化な世界そのものの意識であり、何も知らず、何も思い出さず、何も考えることができないが、しかしそれは、そこから分離し、どこかに行こうとする力動、何かに向かおうとする力動だけはもっている。》
「Quid」では、『わたしは真悟』で、父の不在によって能動性を奪われている悟が、真鈴という自身の鏡像でもある少女と出会うことで、父によってなされるべき原初的な「呼びかけ」への応え(父の機能の代替物)を得るという様が分析されていた。ただしその応えは、自らが発した言葉が行き先を失い(真鈴は既に大人になっていた)、そのまま真悟という機械を中継点として折り返されてきただけなのだが。ここで、真悟こそがテキスト(芸術)の機能をはたすものであり、自らの目的をもたない真悟の寄る辺ない彷徨こそが、テキストを書く(つくる)ことを支える力動きを示しているともいえるのではないか(その結末は破滅的なのだが)。ただ、『夜戦と永遠』では、《その叫び、強度は、未分化な世界そのものの意識であり、何も知らず、何も思い出さず、何も考えることができないが、しかしそれは、そこから分離し、どこかに行こうとする力動、何かに向かおうとする力動だけはもっている》と書かれているようなこと(つまりこれこそ真悟によって形象化されているもの=「未分化な世界そのものの意識」だ)については、言語と言語の外とを分けるような(言語以前を想定するような)疎外論的な論法だとして、考察されることはない。あるいは、そのような力動は、享楽のレギュレータによってあらかじめ調整されていて、世界をかえることはない、とされている。
『夜戦と永遠』で、世界をかえ得るテキストとは、決して情報へと縮減されることのないものだ。それは、書き手によって《信じているのでもなければ、信じていないのでもない》という灰色の状態で《賭け》として書かれたものが、書き上げられたこと、上梓されたこと、何かしらの「効果」が発生したこと、によって、事後的、遡行的に、《突如》として書き手にとっても《信じられるもの》となる、というという(懐妊する)瞬間を宿すものだとされる。それは、子供が出来たと《知らされた》とたんに《突如》として《父》になる、というようなこと(磯崎憲一郎『肝心の子供』で描かれているようなこと)で、そこで父以前と父以降とに分けられた場合の父以前というのは、あくまで《突如》として父になった瞬間から遡行的効果によってのみ見出されるものだ、ということになる。ここには、ドゥルーズ『意味の論理学』での二重のセリーの理論(深層-事物と表層-記号とが分離してあり、しかし表層-記号が深層-事物に突如として介入-貫入する、例えば、日々連続的に薄くなりつつある髪の状態が、ある日突然「ハゲ」と名指されることでバゲとなる、みたいな)が濃厚に響きつつも、その二重化を批判的に継承し、表層の側から一元化しているもののようにも思われる。
この点は、「こちら側(この本の理論的な構成の側)」から見た場合は、納得できる。でも、「こちら側」からだけで「書くこと(つくること)」について充分に言えるのか、ということについては疑問がある。それは、この本への疑問ではなく、ぼくの自身(の制作)にとっての問題なのだが。『夜戦と永遠』ときわめて近い領域を扱い、そこで書かれ、響き合いつつも、微妙に食い違い、重なることのないようにも思われる「Quid」の部分をメモとして引用する。
《だが、少女は異界の女たちとは異なり、ヒステリー的欲望、すなわち存在を時間の中に登記しようとする欲望、つまりごく真っ当な「思いをとげようとする」 主体としての欲望をもたず、反対に、意識を失う。そのことで、少年と少女は出会い得る。美しい少女は少年の専一的対象であり、少年の視覚であり、彼が父と言葉とをもたない限りは、唯一の彼の存在であり、つまり彼自身である。父親が来るべき場所に少女は滞留し、それゆえ言葉は、少女から渡されるしかない。この言葉は、出所不明な声、そして本質的には、語り手のない文字としてのみ渡される(その声や文字がなければ、少年の世界の言葉には、数字しかないだろう。 数唱強迫や失語症の諸相が証すように、あるいは鳥が小石を地面に置き、それで数を数えるように、数字は言語野よりも身体運動野に近い側に記載されており、 そのため対象を失った退行的強迫運動や宗教儀式に親和的だからだ。それゆえ言葉の到来する前の場所で、例えば少年たちは「333から飛びうつる」という儀式を遂行する)。》
《だが、この言葉には、意識がない。それは線状の時間を拒否した、彼自身の存在、あるいは彼自身の非存在から到来するので、結局は分節を欠き、視覚的、一挙的に飛来する。それは読解格子を欠いた絵文字であり、意味不明な呪文であり、雑音である。だが、「真悟」が本当は語られなかった「まりん」の言葉を、彼自身には意味不明ないくつかの文字で少年に伝達しようとしたように、その呪文は、意味不明でありつつ、なお伝達されようとする力動を保持している。》
《父から与えられることのなかった、父の言葉。それは「私は何か」という言葉である。それは「私は何か」という問いへの答であり、その答には「私は何か」と書かれている。機械「真悟」は少年「悟」に、「私はあなたを愛しています」という少女の言葉/文字を伝達しに帰ってくるが、その還帰自体が、少年の生み出した「真悟」という意識、すなわち「私は何か」という問い、の答であり、しかも少女は、本当はこの言葉を発する前に消滅しており、この言葉は、少年が彼女に向けて発した、彼自身のものである。》