2021-01-17

●『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』に、納屋を整理していて、すずが、おそらく周作がリンにプレゼントするために買ったものだと思われる茶碗を発見してしまうという場面があった。すずは、大雪の日、この茶碗をリンに届けようと遊郭を訪ねるが、リンは接客中で会えない。この時、軍人と心中未遂をして生き残ったが、冬の川に飛び込んだために体調を崩して寝込んでいるテルという女郎に出会い、茶碗をリンに渡してもらうように頼む。

熱を出して寝込んでいるテルは、自分は寒い冬が嫌いで、将来はあたたかい南へ行って暮らしたいと語る。そこですずは、雪の上に南洋の風景を描いてテルを喜ばせる。ここでは、寒い雪の日に、発熱しているテル、そして、冷たい雪の上に、あたたかい南洋の風景を描く、という熱(あつい/つめたい)にかんする対照的な配置が強く印象に残る。テルはこのあと、肺炎を起こして亡くなってしまったということが、リンによって告げられる。

この場面を観ていて、終盤にある、被曝して寝込んでしまっている妹のすみのところへ、すずが訪ねる場面を思いだした。この場面は、右手を失ってしまってから「物語を語る」力をなくしてしまったかのようなすずが、妹を相手になら、まだ物語を語ることが出来るという、ポジティブな方向を示す場面と言える。しかし、ここですずがすみに向かって語るのは、戦死した兄が、実は生き残っていて、南の島で、ワニをお嫁さんにして暮らしているという物語で、画面には、失ってしまったはずの右手で描かれた、南の島での兄とワニの絵が示される。

これは、悪い方向の深読みとも言えるのだけど、「すずによって描かれた南の風景」は、この作品においては「死」と繋がっているのではないかという感覚をもってしまったのだった(テルもすみも、どちらも寝込んでいるという共通点もある)。これは、作者が意識的にすみの死を匂わせているというより、表現の配置と構成によって、この場面に死の気配が生じてしまった、ということだと思うのだが。この場面がもっているポジティブな力の奥に、ふっと暗い影が射して、両価的になった、という感じ。