●『寝ても覚めても』(濱口竜介)で、震災の扱い方について、観ている途中ではちょっと引っかかる感じ---「震災のおかげで朝子と亮平が再会」というのはありなのか?---はあった。ただ、震災をあくまで時代背景と考え、個人の人生のなかで震災がそのような位置にあるということはあり得ると思えば納得できるかなあと思って観ていた。震災のおかげで成立したカップルというのも実際にあり得るだろうし、震災後に東北に通うことによって心のなかで「罪の意識」とのバランスをとっているということも、朝子個人の心理の方に引きつけて考えれば、そういうこともあるだろうなあ、と思える。
そして、(ある意味、ヨコシマとも言える)動機とは関係なく、何度も東北に通っていたというその事実が、結果として、朝子に「引き返す」ための根拠というか、勇気を与えたというような展開になるので、映画を最後まで観れば、ああそういうことかと合理的に納得できた。それに、仲本工事がすばらしかった。
●ただ、最初の方のクラブの場面と、最後の方の岡崎が病気になる場面という二つの場面にかんして、すんなり呑み込めないというか、悪い意味でひっかかりが残った。
朝子が、(「あの男はあかん」ということが分かっていながら)麦に夢中になってのめり込んでいくのを止められない、という出来事を、短い時間、少ない場面で成立させるのはとても難しいことだろうと思う。しかし、そうだとしてもクラブの場面はひっかかってしまう。ああいう(ある意味、マッチョな)やり方で「惚れさせて」しまったら、麦も朝子も、どちらも薄っぺらな人のように(少なくともぼくには)みえてしまう。
岡崎の病気にかんしては、単純にこの映画にALSを出してくる理由がわからない。理由などなく、誰にでも、家族や友人が(あるいは自分が)予想もしないような難病に罹ってしまうということはあり得る。とはいえ、映画のなかでそれが起こるということは、誰かが意図してわざわざそうしたということだ。でも、その意図や必然性が分からなかった。
●『寝ても覚めても』で、朝子が麦を断念するという出来事と、『この世界の片隅で』で、すずが水原との関係を断念することとは、構造として似ていると思った。それは、夢とも現実とも確定できない同時並立した二つの流れの、一方を断念して、もう一方を「現実」として確定するということではないか。このような断念=現実の確定は、二つの層のうち潜在化していた方の麦や水原が再び現れる(回帰する)ことによって二つの層が現実の次元で衝突することで「強いられる」ものだ。
逆からみれば、麦や水原が再び現れないのならば、朝子と亮平がどんなに長く付き合おうが、すずと周作とが結婚してようが、一方が潜在化している限りどちらも現実=夢として並立し、相対的であるままだということになる。そして、朝子やすずは迷いのなかに居つづける(でもそれはむしろ幸福なことだ)。
しかし、麦が回帰し、二つの流れが現実の(顕在的な)次元で衝突し、一方の断念=現実の確定が強いられた以上、朝子は「迷ったままでいる」ことが可能ではなくなる。道は一つしかなく、困難でも、どちらかを行くしかなくなる。