2022/01/06

●『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』(片渕須直)で呉は、昭和20年3月19日に最初の本格的な空襲に襲われ(そこから作品のトーンが大きく変わり)、それから頻繁に空襲があるようになり、そして5月5日に大規模な空襲で破壊的な打撃を受ける。その3月19日から5月5日の間の4月3日に、まるで宙に浮いたかのように、場違いとも思われる穏やかで華やかな花見のシーンが挿入される。

この花見の場面でリンは、自分の死を予言するような意味深なセリフを言う(リンは5月5日の空襲で死ぬ)。まずリンはすずに、同僚のてるちゃんに「南の島」の絵を描いてくれたことの礼を延べ、そしててるちゃんの死を告げる。そして、てるちゃんの遺品である口紅をすずに渡すのだが、その前に、その口紅を指でとってすずの唇につけて言う。「きれいにし、空襲のあとはきれいな死体からかたづけてくれるそうだから」と。死体を速やかに処理してもらうために「きれい」にしておくべきだという、この言葉もかなり不吉だが、次の言葉が意味深だ。

「死んだら私の心の底の秘密も消えてなかったことになる。それは、自分専用のお茶碗をもつのと同じくらい贅沢なこと」と言うのだ。これはおそらく、他とは交換できない、私だけのものである「唯一のこのわたし」が、死によって誰にも侵されることないものとして完結するのだ、というような意味であろう。

この言葉が異様に響くのは、この作品が基本的に、現実と(他でありえた)可能性、そして、「ここ」と「そこ」との交換可能性についての物語であるからだ。すずと周作という現実の夫婦生活と同時に、あり得たかもしれなかった、すずと水原の、リンと周作の夫婦生活の可能性が重力として物語に強く作用している。さらには、ここになったそことしての「呉」と、そこになったこことしての「広島」との対が、一方が常に他方を意識させるような双対的な場として描かれている。原作の冒頭には「この世界のあちこちのわたしへ」という文が掲げられていることからも分かるが、どの人物も皆、幾分かは「わたし」を分け持っている(あなたは、そこにいるわたしである)ことが意識されている。あるいは、フィクションによる媒介する力は「代用品」であることによって発揮されるという主張がなされてもいる。

そのような「作品の基本姿勢(このわたし、より、あちこちのわたし)」に、この場面のリンだけがただ一人、抵抗しているようにみえる。ここでのリンの言動を、ここだけ切り取ってみるならば、やや危険な死の美学化のような匂いを感じなくもないが、ここで重要なのは、作品全体の力の流れに抗するような形で、リンが一人ですっくと立っているということだと思う。

この作品のリンは、すずにとっての「もう一人のわたし」であるような存在であるが、しかし同時に、対極にあるという意味で双対的な存在ともいえる。リンが「唯一のこのわたし」として死んでいくのに対して、すずは、戦後もなお「複数の交換可能性」のなかで生きる(互いに「代用品」として出会った孤児を受け入れ、すずとリンの、ありえたかもしれないもう一つの物語を紡ぐ)。