●お知らせ。「映画芸術」436号に、テレンス・マリックツリー・オブ・ライフ』のレビュー(「浮力と重力、ヴィジョンとその根拠」)を書いています。
●久しぶりにビデオで『クーリンチェ少年殺人事件』(エドワード・ヤン)を観た。たっぷり四時間ちかく、熱帯の夜の空気と「男の子たち」の普遍的な愚かさがみっしり詰まっている。
この映画のすごいところは、主人公の男の子のまわりの人間関係や環境や時代背景などをすごく分厚く見せているのだけど、それが群像劇の構造にはなっていないというところからくるのではないか。例えば、前半では、主人公が属しているわけではない少年たちのグループの抗争が主に描かれており、主人公はその周辺にいる人みたいな感じだし、後半では主人公の父親の大陸時代からの人間関係みたいな話が大きくクローズアップされている。主人公は、主人公でありつつ、必ずしも話の中心にはいない。一見、多視点的な群像劇のようにも感じられる。しかしこの映画は、一人の少年が少女を刺すに至るまでの話であり、つまりこの「刺してしまった少年」の話へと収斂する。
少年たちのグループの抗争によって、もともとその一帯を取りまとめていたリーダーの少年が殺され、その報復としてリーダーと親しかったヤクザが少年たちのグループを襲撃するという、この映画のプロットの大部分を占めるとさえ言える話が、誰が誰だか一度観ただけでは把握できないような「無数の少年たち」の像として描かれる時、主人公はその隙間から見え隠れするみたいにしか現れない。でも、にもかかわらず、それはあくまで「主人公が生きている環境」であり、主人公の少年と少女が出会い、その関係を規定する背景として示される(つまり、主人公あくまで主人公なのだ)。ものすごくたくさんの人物のものすごく複雑な関係が描かれつつも、それが主人公の方に(主人公の事件に)返ってくるというか、主人公を成立させるのに不可欠な背景として成立している。しかしむしろ、その環境や背景の方こそが、主人公以上に前に出てきていて、主従が逆転しているとも言える。この微妙な(バランスを欠いているとさえ言える)拮抗関係こそがこの映画の独自性だと思う。
この映画以降のエドワード・ヤンは、複数の人物たちの、それぞれに独立した複数のエピソードが同時並立的に進行し、それらが関係したりしなかったりするという多視点な物語構造を採用するようになのだが、ぼくにはそれが十分に成功しているとは思えない。
この映画は、台湾ではじめての未成年者による殺人事件を題材としており、要するに「なぜ、少年は少女を刺すに至ったのか」という話なのだが、この「なぜ」を示すためにこそ、このあまりに分厚く複雑な背景が語られなければならかった。しかし、このあまりに分厚い背景は、「こうだから、こうなった」という必然性よりもむしろ、「ちょっとしたことで、こんなことにならなかったかもしれない」という可能性の方を強く示しているように感じる。ここで示される、複雑に絡み合う関係やエピソードは、もしそのどこか一か所だけでも違っていたら、こういう結果にはならなかった、ということこそを示す。つまりこの映画は、「こうだから、こうなった」ということ(物語)と、「こうはならなかった無数の可能性」とを、一人の主人公の出来事とそのまわりの分厚い環境によって、同時に示すことに成功している。見えているものによって、見えていないものが示されている感じ。
(例えばこれを群像劇でやろうとすると、似たような環境にいる複数の人物の複数のエピソードを適宜交錯させながら同時進行させ、それぞれ異なる帰結を導くというやり方になるだろう。しかしその場合、どうしても人物やエピソードを関係づける「作者の操作性」の方が強調されてしまうし、複数の可能性が顕在的に提示されることで、そうではない、別の「潜在的」な可能性は感じにくくなると思われる。)
だからこの映画は、物語を語りつつ、物語とはならなかった物語以前のもの、別の物語の可能性を、(単線的な物語の解体という形とは違う形で)同時に複数的に示していると思う。時間の進展とともに進む物語だけではなく、可能性の幅としてひろがる反時間的な反物語が示される。この映画の四時間という上映時間は、物語を語るためにだけ必要なのではなく、可能性の複数性を示すために必要な時間であり、進行する時間のなかに反時間的なただよう時間を実現するために必要な時間なのだと思う。
ここでは、黒沢清がよく言う「運命の歯車が回り始めると後戻りできなくなる」という運命の自動回転(必然的連鎖)とは真逆のことがなされようとしていると思う。これは、もしかしたらこの少年は刺さずに済んだかもしれないということと同時に、結果として刺さずに済んだ別の(無数)少年においても、刺したかもしれないという可能性が宿っているということも示す。「男の子たち」の普遍的な愚かさ、という感じは、そういうところから来るんじゃないだろうか。刺してしまった少年の固有性によってこそ、刺すに至らなかった無数の(無名の)少年のあり様が浮き上がってくるというだけでなく、逆に、刺してしまった少年の固有性を示すためには、刺すに至らなかった無数の少年たちによる「環境」を示さなければならない、というか。映画は、主人公の感情に深く潜行するかわりに、その周囲にひろがる関係と環境へとそれをひらいてゆく。主人公の周囲にあるものこそが(主人公の周囲への違和もそこに含まれる)、主人公を「表現する」。だから、主人公は物語の中心にいる(多焦点的ではなく主人公に収斂される)にもかかわらず、主人公とその(複雑な)背景の主従関係は逆転している。この「ねじれ」を実現することによって、この映画は偉大なものとなる。
エドワード・ヤンのようなすごい映画作家でも、このようなことが実現出来たのはこの一本だけだと思う。勿論、これだけで十分すぎるほど十分なのだと思う。