2023/05/12

⚫︎ジャンケンは、後から出せば必ず勝つ、ということを、最近考える。

現代における「認識の進化」が確実にあるとする。その、新しい認識によって、過去に関する評価が変化する。これは当然のことだ。「新しいもの」というのは、現在や未来を変えるだけでなく、過去も変える。

しかし、現在の基準から過去に関する評価を変えるというとき、いつもモヤモヤするのが、でも、これって後出しジャンケンと一緒ではないかという感覚だ。それはいわば、正解が分かっている時点から、正解が分からずに試行錯誤していた人々を断罪している感じがしてしまう。自分が安全な位置にいるみたいで、これってフェアなことなのかな、と思ってしまう。

(結論として正しいことと、態度としてフェアなこととが、食い違っている感じ。)

断罪しているのではなく、認識を変えているのだ、が、しかし、過去に「権威」であったものを、「評価し直す」というときに、「ザマアミロ」的な、下剋上的な気持ちよさを、どうしたって感じちゃっていることは否定できない。

でもこの時、現在にいて「再評価」している自分は、過去の時点で、同時代的に「権威」と闘っていた人、あるいは、否応なく「権威」に巻き取られてしまった人、時代の制約の中で試行錯誤して間違ってしまった人とは、全く違う位置にいるのだということを認識していないと、後出しジャンケンをしているのと同じになってしまう。

現在にいて、常に「間違うことのできる」位置にいる自分と、正解を持って、過去に対して「答え合わせ」をしている自分との乖離。

認識を変えること、それ自体を否定しているのではない。認識を変えることそのものが、現在における「権威」に対する闘いともなる。その時、わたしは「認識を変える」現在にいる。ただ、振り返って歴史的に他者を評価するという行為の持つ根本的な「不遜さ」を、常に意識していないと、と思う。

(また別の話だが、よくある、既にヒットした商品や作品について「〇〇はなぜ売れたのか」みたいな記事を目にしたときに感じる嫌悪もまた、後出しジャンケンに感じる嫌悪と同様なものだ。問題を解いているのではなく、答え合わせをしているだけ。自分では何一つ考えていないし、何一つ「賭け」ていない。こういうのは、少なくとも「次に売れるのは〇〇だ、なぜならば…」という、不確定な要素を含んだものでなければフェアではない。負ける可能性のないジャンケン、間違える可能性のない思考や行動に価値はないと思う。)