2023/05/13

⚫︎たとえば、グリーンバーグに批判されるべき点が多々あるというのは分かるし、批判されるべき点は批判されるべきだが、しかしそれでもグリーンバーグが偉いのは、ポロックが無名の時点で「ポロックはすごい」と言ったことだ。目利きというのは、たんに権威が内面化された目を持つということではなく、未然のものに対する判断を積極的に行うということだ。そしてそれはもちろん、間違えることがある。

プロ野球にまったく興味がないので、プロ野球を比喩にする時点で雑な思考になってしまうのだが、「今シーズン優勝はするのは〇〇でしょう、なぜならば…」という言説と、「今シーズン、〇〇が優勝した理由は、~だからだ」という言説は根本的に違う。後者は答え合わせであり、何を言っても「間違い」にはならない。

既に高い評価のある、あるいは既に売れている作家を読んでいる時点で、そこには「これは読むに値するものだ」というお墨付きがついており、なぜ他の何かではなく「これ」なのかという問いの答えが半分以上出てしまっている(というか、そのような問いの答えを「外部」に委託してしまっている、このような態度が「権威主義」なのだと思う)。仮に、その「答え」を批判的に検討するにしても、まずその「答え」が前提とされている。そうではなく、未だ何者か分からない不定形な何かについて、なぜ他でなく「これ」なのかという問いまで含めて考えるのが批評なのではないかと、ぼくは思う。

それは、高名な作家の作品を読むときも、高名な作家の作品として読むのではなく、未知の、無名の作家の作品と出会うように出会い、未知の、無名の作家の作品であるかのように読む、ということだ。

未然のものに対する判断には「正しさ」には還元できないものがある。「間違えることができる」というのが、批評の研究に対する唯一の優位ではないかと思う。

(ちょっと違うが、進行中で未だ完結していないアニメについて考える時、その作品が完結してしまった後にそれについて考えるのではできないことをしているのだと思う。)