2019-04-26

●『さらざんまい』第三話。

カッパの側を特徴づける運動が人力車による水平的な移動であるの対して、カワウソの側を特徴付けるのはスカイツリーを上昇したり下降したりする垂直的な運動であるようだ。また、カッパは隅田川(吾妻橋)を挟んで浅草側にテリトリーがあるのに対し、カワウソは、対岸のスカイツリー側をテリトリーとしているようだ。

(とはいえ、この対立は本質的なものではないと思われる。「ウテナ」において、一方にベタな性的欲望-快楽をあらわす高速道路を自動車で疾走する水平的運動があって、もう一方に、塔の上へと昇っていく(世界の革命を目指す)超越的な欲望をあらわす垂直的な運動という対立があったが、それはどちらも、生徒会=暁生システムの側にある運動であり、どちらもウテナにとっての罠という意味で「偽の運動」であったと言える。ウテナはその偽の対立こそを超えなければならなかった。)

また、カッパの側が、肛門・直腸的なイメージの圏内にあるのに対し、カワウソの側は、警察官であることで拳銃をもち、また、スカイツリー()をテリトリーとするということから、象徴的な男性器(「穴」に対する「突起物」)というイメージの圏内にいるようにも思われる。とはいえ、カワウソの側にいる二人(レオとマブ)において、拳銃は「突起物」であるというより、銃口=穴という特徴の方が強調されているように見える。つまりここでも、肛門対男性器という対立は本質的なものではなく偽の対立であり、肛門・直腸も、男性器も、どちらも「穴と管」という同一の構造に還元できると考えられる。

(直腸の奥に尻子玉が隠されており、穴=肛門から侵入してそれを奪い取る---穴の外から内へ---という方向性と、銃口=穴の奥に弾丸があり、その弾丸が発砲によって外へ発射される---内から外へ---という方向性の違いがあるとはいえ、穴があって、管があり、その奥に何かが隠されているという構造は同じだと言える。)

だからここで、肛門・直腸と男性器とは、対立するイメージではなく鏡像的な類似物としてあらわれており、この二つ(カッパ=肛門とカワウソ=男性器)は、隅田川という鏡を挟んで鏡像的に反転した相似的なイメージと考えるのかがよいのではないか。つまり、穴=女性器、突起物=男性器という通常の対立的なイメージに対し、肛門・直腸も男性器も、穴と管という同一の構造の反転的な表れであるという見方が示されていると考えられる。

穴と突起物というイメージの二項対立を解消するものが、管という三つ目の項である。管は、突起物にも陥没構造にもあり得ることで、マイナス突起物=穴、マイナス穴=突起物という形でイメージの反転的同一化を可能にする。穴と突起が管に媒介されることによって、穴、管、突起の三項による循環構造が生まれる。

ならばここで、カッパとカワウソとの対立は、カッパが三である(一稀、悠、燕太)のに対して、カワウソが二である(玲央、真武)という、三と二との対立ということになるのではないだろうか。カッパが三であり、カワウソが二であるという、この三と二との違いが、この作品において今後重要になっていくのではないだろうか。

(穴の奥に管があり、管の先にもまた穴しかない、そしてその穴は、別の穴に繋がっている、という構造も、勿論考えられるだろう。あるいは、管こそが裏返された外皮=突起であり、突起もまた、裏返された管---内皮---でしかないとも考えられる。この場合、奥に隠されたモノ=尻子玉は、内側にあると同時に、外側にもあることになる。そして「穴」とは、内と外との反転が生じている「境界」でしかないことになるだろう。)