●『アニメ・マシーン』(トーマス・マラール)を読み始めた。序論を読んだ。面白そう。以下、引用。
≪(…)あるイメージが他のイメージと衝突するとき、相手の反作用は、即座に起こる因果的な反応であろう。しかし、ベルクソンの考えるイメージの世界では、何かに働きかけられても即座には反応しない、ある特定の種類のイメージが現れる。そこには、作用と反作用の間に遅滞があるのだ。そうしたイメージには「非決定の中心」がある。ベルクソンによれば、そのイメージとは生物である。≫
ジルベール・シモンドンは、イメージの普遍的な流れや震動全体から意識を演繹するベルクソンに立脚して、同様の仕方で技術的な対象を見るよう提案している。シモンドンは生物学を中心に据えたベルクソン哲学の見地から技術的対象に注目してはいるが、技術的な対象が自然対象(有機体)と同じであると提唱しているわけではない。彼の目的は、機械が生きているとか、機械が生物と同じだとかを示すことではない。むしろその主張は、非決定の中心をそなえた技術的な対象が存在するということである。こうした技術的な対象は原因と結果との間に遅滞をもたらす。その結果、自然対象や有機体と同じように、技術的な対象はどう「進化する」のか、そしてそれらはどのようにして「感じ」、「思考する」ようになるのか、ということに注意が向けられるだろう。私が「進化する」「感じる」「思考する」といった言葉を括弧つきにしているのは、技術的な対象を、自立し自足した生命形態(自己産出)として見做すことがシモンドンの意図ではないからである。技術的な対象の進化と思考は人間との関係において生じる。それゆえ、技術的な対象を、シモンドンが技術的な集合体(アンサンブル)と呼ぶものから切り離して扱うのは不可能である。それでもなおシモンドンは、(総称的な用語を使えば)機械の力ゆえに、機械にある程度の自律性を認めている。あるいは、機械は自律性の帯域を生み出すと言ってもよいかもしれない。有機体はその環境と共に進化するが、技術的な対象はその技術的な集合体――そこには人間も含まれる――と共に進化する。技術的な対象と技術的な集合体をこのように見る見方が、ガタリの「機械的な突然発生=他者創出(ヘテロジェネシス)」の理論にとってのインスピレーションの源泉であり、ひいては、この方法が、装置(アニメーション・スタンド)と機械(多平面的な機械もしくはアニメ的な機械)を対比させる私の姿勢の基盤になっているのだ。≫