●夏の夕方。午後七時ちょっと前。部屋から駅へと緩やかな坂を下ってゆく。昼間に日が射さなかったので、地面からの放射熱が全くなくて涼しい。台風が去った緩んだ感じの後の空気は、いろいろなにおいを強く際立たせる。植物の青臭さ、土のにおい、夕食をつくっている油のにおい、猫の小便のにおい、風呂場から流れてくる湯と石けんのにおい。空はまだ明るいが、地上は既に暗く、かなり近づくまでそこに人がいることに気づかなかったりする。誰もいないと思っていた坂の途中で、通りを背に、地面に直接尻をつけて座っている男に、2、3メートルの距離で初めて気づいてハッとする。すれ違いざまに横目で見ると、猫に餌をあげていた。どこかから話をする人の声が聞こえているが、それがどこからなのかは見えない。家族や親類にいつまで生きてるのかなんて思われながら生きていたくなんかないからねえ。声を潜めるというより、あまりおおっぴらには言えない事を言う時のちょっと変な発声でしゃべっている。そういうしゃべり方の方がかえって耳につく。庭木の陰になった玄関先で二人の中年女性がしゃべっていたのだった。犬が喉を鳴らす音。表からちょっと隠れた場所で犬を飼っている家は知っているから、その声の出所は見えなくてもわかる。坂を下りきったすこし先、絶対にそこで食事したいとは思えない、小さくてボロくて汚いの定食屋の中からオレンジ色の電燈がまぶしく輝いていて、表からはほんの僅かな隙間から見えているに過ぎない奥の厨房の様子が(しかも通りがかりの一瞬でチラッと見えただけなのに)、なかで調理している老年の女性のちょっとした仕草や気配まで感じられるほどはっきり見えた気がする。ジャッ、という、何かを炒める音が聞こえたように思えたけど、それは、その仕草からの連想に過ぎなかったかもしれない。空は、昨日同じくらいの時間に新宿で見たピンクがかった紫みたいな色とはまったく違って、ただ、青がどんどんと濃くなっていったような色。(今日の空http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sora8.9.html)