●ビデオを返すために部屋を出る。自転車はパンクしたままなので、ビデオ屋まで片道15分くらい歩くことになる。夏の夜のなまあたたかい空気は疲労が地面の辺りをまったりと漂うように停留している感じだ。昼間の強い光と混じり合う湿った空気は感覚を強制的に駆動させ、高揚と覚醒が強いられ、その状態と、建物や電車のなかなど冷房の効いた場所の涼しくさらさらした空気のもとでのさわやかな安らぎ(しばしば眠気に誘われる)とが交互に訪れるため、確実に疲労はあるにも関わらずそれが意識化される隙間がない。そしてその間に蓄積された疲労は、日射しが遮られ、肌に直接照りつける熱気にかわって地面からじわじわと昇ってくる熱がひろがる夜になって、汗の湿気とにおいとともに身体からどろりと抜け出て、その周囲に粘りつつ漂うように意識化される。痛気持ちいいみたいな、妙な心地よささえ感じられるような疲労(この疲労は妙に「淫ら」な感じなのだ)を重たく引きずりながら歩く夜の住宅街では、もう既に秋の気配の虫の声さえ聴こえてくるのだった。緩やかに下りながらつづく道をゆき、しばらくして、登り坂にかかる。人通りの少ない住宅街では、人の気配は家に点いている灯りと、たまに漂ってくる風呂の石けんの匂いくらいなのだが、最近では少なくなったとはいえ、網戸をつけて戸を開け放している家が稀にあり、そういう家の前を通ると、ふいに、蛍光灯の眩しい光とテレビの音と食器がぶつかる音が生々しく道ばたにまで溢れてくる。わざわざ覗き込まなくてもそちらにちょっと目を向けるだけで、その家の人たちがくつろぐ茶の間(?)の気配が手に取るように近くに見えて(感じられて)しまうのだが、なるべくそっちを見ない様に、しかしそれでもちらっと横目で見てしまうような感じでそこを通り過ぎる。炒め物の油の匂いが鼻先をよぎった。誰もいない小さな公園に生える木々が黒々とそびえ立っていて、しばらく立ち止まってそれを見上げる。暗がりで煌煌と輝く自動販売機に吸い寄せられ、グレープ味が染み込んでいるカチ割り氷を買い、それをガリガリ齧りながら歩く。大きな駐車場のある郊外型のレンタルビデオ店のある大通りが見えてくると、雰囲気が急に荒れてざわついたものになり、こちらの知覚のモードもゆっくりと切り替わってゆく。(しかしそれはとてもかったるく、うっとうしいことだ。)多くの人が車で訪れる郊外型のビデオ店の客の大部分を占める家族連れは、家にいるそのままの感じと言うか、家のなかで部屋を移動したたげという風情のままで存在しているので、それを目の当たりにするのは少し恥ずかしい感じだ。帰り道、ちょっと遠回りして、ビールの自動販売機のある処に寄ってビールを買ったのだが、そのビールがまったく冷えていなかった。